Category: ジェンダー
旧約聖書に、神はアダムの肋骨からエバを作ったという話がありますが、意味はよくわかりません。
あるエスキモー(グリーンランドイヌイト)の話では、最初の男は大地から生まれ、女は男の親指から生まれたとか。
東アフリカのある部族(ヴァザニャ族では、神は最初に男を一人だけ作ったけれど、男は孤独に耐えられなくなったので、神は8日目に女を作ってくれたという話。
男が先という話はわりと多いようです。

北米のある部族(ブラッド族)では、神は最初に一人の女を作ったけれど、口が縦に裂けていたので、口を作り直し、その後に数人の女と男を作ったそうです。男たちは女を恐がって別々に住んでいたけれど、神様にハッパをかけられてなんとか一人づつ夫婦になったとか。
西アフリカのある部族(エコイ族)では、最初は女ばかりだったけれど、神が間違って一人の女を殺してしまい、神はそれを詫びて女たちに望みのものを与えようと言ったら、女は自分たちに奉仕してくれる男が欲しいと言ったとか。女性優位の社会らしいです。

日本の古事記では、男女未分の神が何代か続き、次に夫婦の神が何代か続き、神代の物語がいつのまにか人間の時代の物語に移って行ってしまいます。どっちが先かということはありません。

感想としては、こういうのは男性または女性が優位な社会において、その理由を説明する必要から生じた物語のようで、どちらが優位ということもなかった日本人などは全く関心がなかったようです。神話といってもそれほど古くて深い意識から生まれた話ではないような感じです。参考にした本は、大林太良他編『世界神話事典』(角川書店)
現代は母と子の密着した関係が増えたので女装さんやトランスさんが増えるのだ、という見解をときどき目にします。家庭内での女性の影響力は確かに大きいと思います。けれど、今の核家族では女性家族は母親一人しかなく、だから母と子の密着した関係うんぬんという話になるわけなのでしょう。大家族の時代は、若い未婚の叔母や、年齢の離れた姉からの影響力のほうが、トランスさんに関しては強かったように思います。

つまり年少のころの女性からの強い影響ということであって、密着関係が成人後まで持続することとは関係ありません。

最近の結婚できない男性についても、母子関係が問題にされることがあります。母親が焼いてきた世話を、妻がしてくれるものだと思っている男性たちがいます。母親もまた世話を焼くことができなくなったら寂しいのでしょう。息子の離婚については全て嫁が悪い、いやまだ結婚していないんでしたね、息子が結婚できないのは今の女が悪いからだと母親は考えます。息子も自分が結婚できないのは今の女たちが悪いのだろうなと思い始めるのかも。

ところで、古代社会では、15歳になれば男子は母親のもとを離れなければなりません。男子は集会所のようなところで年齢の違う男どうしで生活するわけです。そんなわけで男色は人類史の最初からあったらしいのですが、とにかく、そうやってやっと母親から自立することができたらしいです。結婚してからは妻問婚といってときどき妻の家に通うだけなのですが、同居したりすると男子は再び母親のような強い存在に呪縛されてしまうことを怖れてしまって、そのような結婚のかたちになったのだろうといわれることもあります。夫はどこから通ってくるかといえば、母親の家であるはずがありませんね、男子集会からということになります。同居でないので一夫一婦制にもなりません。
男子は集団で労働やマツリゴト(祭政)をするのが主な仕事でしたが、狩猟や開墾や軍事など危険を伴うことが多いので、女子の宗教的な力で守ったということなのでしょう。男子の中にも女装で神懸かりして大事なことを決定する役割の人がいました。
財産のことはよくわかりませんが、開墾した土地は開墾した男子のものなのではないでしょうか。でもあっちの大木なら伐ってもタタリはないだろうと教えたのは女子ですし、その土地も夫が死ねば結局は妻のものになるのかも。けれど男子集会が国家のもとに組み込まれて行けば、書類上は男子の管理する土地になっていったのかもしれません。
「優秀な男がたくさんの女に子を産ませれば優秀な子孫が増える」という話のウソについて。(お酒の席のジョークなら、ジョークでいいんですけれど)

普通に考えればわかると思いますが、いちおう説明してみます。
極端な例ですが、猿の世界の一部にあるような、一匹のボス猿が群れのすべてのメスを独占するケースです。これが人間だとすると、2代目では、兄弟と争って勝った一人の男が、すべての姉妹と婚姻することになります。婚姻はすべて近親婚になり、そういうことを何世代も続けた部族が優れた文明を残せるはずがありません。
というより、近親婚をタブーにしたことが人類の始まりなのかもしれません。

ですから、人類の理想としてきた婚姻形態は、一夫多妻制からいちばん遠いところにあるようなかたちなのではないでしょうか。(それは子孫の数が減ってしまうような多夫一妻のことではありません。)
そのかたちとは、婚姻を望むすべての男女に婚姻の機会を与える社会ということです。
自然環境の激変や時代によって男女の数にばらつきがありますから、それは一夫一婦制でもありません。それは身分に関係なく2人程度の妻(または夫)との婚姻が可能な社会なのかもしれません。

じつは日本の古代にこれと近かったようなことがあったような資料があります。
邪馬台国時代の中国の史書『魏志倭人伝』に次のような記述があります。

「国の大人は皆、四、五婦。下戸も或いは二、三婦。婦人、淫れず妬忌せず」
支配層の男子は皆四、五人の妻をもち、庶民の男子も時には二、三人の妻があり、女性たちは多情ということはなく、嫉妬もしないという意味です。

これは義江明子著『つくられた卑弥呼』(ちくま新書)という本の中に引用されていたものです。複数の妻をもつということから、従来の男性の学者たちは、一夫多妻制だったと主張していたらしいのですが、庶民の男子までが複数の妻をもったのでは計算が合わないと著者は言います。「婦人、淫れず妬忌せず」というのは、女子もまた二、三人の夫をもち、それが当たり前だったからではないかということです。

こういうケースでは婚姻にあぶれる者があまり出ないのではないかと思いました。
支配層は四、五人の妻というのも意外に少ないと思いました。気持ちの通った関係であるならこのくらいの数が限度なのかもしれません。『魏志倭人伝』には日本人の集会では座席の順序などに父子や男女による区別はないとも書いてあるようです。

中世の村娘の話は、「至福の家族」という記事(この記事は説明が飛躍していて自分でもわかりにくいところがあります)に書きました。

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

わかっていることだけど「愛してる」って言ってほしい、何か目に見えるかたちで表現してほしい、という女性からの男性への希望は、やはり多いようです。

ある大脳生理学者の本には、それは女性が「大脳周辺系での満足を本能的に求め続けている」からだと書いてありました。大脳周辺系とは脳のなかで動物の本能をつかさどるような部分のことで、霊長類や人間は、それのほかに「新皮質」という部分が発達し、それによって知性や文明が誕生したのだそうです。精神性の高い愛情から求めるのではなく動物の本能をひきずっているのだというような意味になってしまうのですが、もう少し気のきいた説明のしかたもあるかもしれません。

「わかっていることを繰り返し表現する」ということは、芸能の世界では当たり前に行われることです。音楽を例にすれば、「その曲が名曲だということはわかっているので聴いてもしょうがない、時間のムダだ」という音楽ファンはいないと思います。良いものは何度でも聴きたいですし、聴くたびに違う味わいも感じられ、新しい発見もあるかもしれません。いつも同じ気持ちで聴くのではないからというのもあります。

同じ本に、有名な作曲家や音楽家が男性ばかりなのは、男性は右脳が発達しているためであって、音楽を理解するのは右脳のはたらきだからと書いてあります。たしかに天才的な男性による名曲の数々は、どんなにか人々に喜びを与えてきたことでしょう。けれど、ドレミの音階もハーモニーも何もなかったときに突然に天才的な男性が現れてすべてを創造して素晴らしい名曲ができたわけでもないのです。民謡とか民族音楽とかがずっと昔からあって、とても長い年月をかけて無名の人々によって音楽という形式が整えられていったのです。天才的な男性が現れるのはその後です。そういう芸能にかかわってきたのは、どちらかというと女性が中心だったようです。それは世界各地の神話物語の中で、音楽の神は女神であることが多いことからもうなづけます。

文学の世界でも、昔話やお伽話といった伝承文学の担い手は女性でした。母や祖母が子や孫に聞かせ、その子が親になってまた聞かせる。子どもたちは同じ話を何度も求め、そういう長い歴史があって初めて、天才的な男性作家が出現できるのでしょう。
女性は古代からの芸能者の血を引いているので、冒頭のような希望を常にいだいているのかもしれません。

芸能に携わってきた人々の中には、女性のほかにも、女性の服装をまとったような男性のような人たちが多かったことも、世界中で見られたようです。彼女たちはいったい何のために芸能や芸術を創造したのか、ということも、とても興味深いテーマになっています。

テーマ : 女性化・男性化・中性化 - ジャンル : 心と身体

自殺の統計データのページを見ました。
日本では1998年ごろから特に増えているみたいです。

年齢別でいうと、いちばん自殺が多いのは50代、
次が40代です。

男女別に見ると、男性のほうがだいぶ多く、40代50代では女性の4倍近い数字です。
20代と60代以上では、2倍ちょっとの差なのですが、これは40代50代の男性の自殺者がとびぬけて多いので、40代50代で女性の比率が低くなっているためです。

女性脳のばあいは、ある程度逃げ場を持てるようになっているんじゃないかと思います。
男性脳ですと、一つのことしか目がいかなかったり、こだわりやプライドも強いですから、いわゆるつぶしがきかない人が多く、失業とかうまく行かないことがあると危険なことになってしまうこともあるのかも。

GIDを含めてMTF(女性化トランスジェンダー)の場合も、女性脳ですから、特殊なケースを除いては自殺については女性なみのはずです。(都合の悪いときだけ男性になって庇護を求めるのはよくないという意味です)

40代50代の男性に元気になってもらえるようにするのも、同世代の女性脳の役割なのかも。
鳩子の場合とりあえず写真を見せて元気になってもらうことしかできてませんけど。
hatokoある有名月刊誌によると
男性の平均寿命が日本でいちばん長いのは長野県だそうです。長野県は高齢者の就業率も全国一で、全国的な傾向としては高齢者の就業率が高い県の男性が長生きなのだそうで、環境や食生活の影響はあまり関係ないそうです。
女性が長生きなのは家事労働を一生続けるのが原因だそうです。男性の中には60才まで働きすぎでそれ以後は何もしない人も多くて、そういうのがいけないみたいです。外で働く女性も、家事労働をあまりしなければ短命の可能性があるということなのでしょう。

トランスジェンダーはどうかというと、FtMは短命だということをいう人もいます。
MtFのばあいは、データを見たことはありませんが、薬物を使用している人は、副作用からくるいろんな病気が心配です。薬物を使用していなければ平均なみなのかどうか、よくわかりません。
ある本を読んでたら、思春期の若者は、異性に対する憧れと恐怖感を同居させている、というような一行がありました。どの年代の人でも多かれ少なかれそうなのでしょうが、思春期には特に顕著に現れるということなのでしょう。
女系家族で育った女性たちも、男性に対する漠然とした憧れを抱いていることが多いでしょう。彼女たちの好みはソフトで優しい男性です。彼女たちの男性への恐怖感は、世間への恐怖そのものとも重なっています。
こうした家族の強い影響のもとに育った男の子は、女性たちと同じような発想をしがちですが、鳩子の場合は、男性への憧れはあまり感じていませんでした。憧れを感じたのは、小学校の男性教師の知識くらいです。ほかには作家や芸術家などの遠い存在に対してでした。気持ちをもっと女性化すれば男性への憧れを感じることができるようにも思います。
男装生活のときに、これはちょっと女性たちの意見を取り入れすぎたかなと思うときがあり、それが失敗に終わったとしても、教訓化することができずに、同じことを繰り返してしまいます。
3/7 の「右脳と左脳、男性の危機?」という記事で書いた「男性の言語表現」とは、文学的表現についてのことで、つまり要するに、いただくメールなどでぐっとくるものが少なくなったかもしれない、という意味なのでした。

いわゆる社会的なコミュニケーションの手段としての言語表現がお上手だからといって、魅力のある人だとはかぎりません。むしろ逆のケースのほうが多いと思います。

ある詩人の言葉に、「言葉というのは通じないものなんだ。それでも自分は詩を書きつづける……」というのがありました。
けれど、通じなくても、どこか遠くで何かと響きあうものがあるのだろうとは思います。

いわゆる社会的なコミュニケーションが下手な人は、世の中にはたくさんいましたし、昔はその程度のことで悩む人はなかったのだろうと思います。落語に出てくる長屋の熊さんや八っつぁんたちがそうでした。長屋や地域社会では価値観を共有しあって、それぞれの足りないところは補って暮らしていたのでしょう。でも今はちょっと難しい時代になってしまったのかもしれません。

いわゆるコミュニケーションが下手な人は、そのぶんだけ孤独を感じることが多いのでしょう。孤独に耐えること、そして孤独ではない別のものを感じるようにすること。どうしたらそういうふうになれるでしょうか。
男性は脳梁が細い、というキーワードで検索したカウンセラーの人のページに、現代の危機にある「男性を救出してあげてほしい」なんて書いてありました。
http://www.sodatsu.com/labo/index.html
左右の脳をつなぐ脳梁が細くて心のバランスが悪く、言語表現に乏しい……、たしかに今の男性は言葉の表現に魅力が少ないです。ていねいさだけしか考えたことがないような決まり切った挨拶言葉の羅列、謙遜表現がまわりくどくて責任放棄みたいに聞えるし、結びの言葉に困れば「これからもよろしく」。……差し引いて見て聞いてあげないといけないんだということはわかります。

言語表現に乏しいとは、脳梁が細いからというのでなく、右脳が大きくてバランスが悪いからということみたいです。「右脳ブーム」というのが良くなかったのかも。右脳は芸術的能力に関係するといってみても、文学以外の芸術ということですし、それでほんとうに芸術的なのかどうか。
おしゃべりである必要はぜんぜんなくて、短くて面白い言葉の表現ができたら、とても魅力的に見えると思います。
生活の中でのいろんな感動を、よく分類して整理してみたらいいんじゃないでしょうか。すべての感動を一つの感嘆符でくくってしまうのではなく、一つ一つに名前をつけてあげて、なるべくたくさんの引出しを使って別々にしまっておけるといいと思うんですけどね。

つづき → 3/12「言葉とは通じないものかも
職人さんや仕事をしている男の人の中には、脇から誰かが話しかけると、仕事の手が止まってしまう人がいます。話しかけたほうはちょっと申し訳ないように思ったりもします。集中して仕事をする男性にはそういう人が多いらしいです。
女性たちは、電気釜のスイッチを入れながらお鍋でことこと煮物をして、もう一つのお鍋はおみおつけの出しを取っていてまな板の上では具に入れる野菜をトントン刻んでいる、というくらいは当たり前のことです。
ラジオを聞きながら受験勉強をしたりする若者のことを「ながら族」と言った時代がありました。大人たちは本当に勉強しているのか疑ったらしいのです。今の若者はそれが当たり前になりました。
多数の意見を聞きながらものごとを調整する仕事は、ながら族的な能力が必要なのかも。現代では逆に、情報やら意見やらが多すぎて振り回されてしまう若者が増えてるのかもしれませんけど・・・。
トランスする人が自分の思い描く性別になりきってしまうのは男性的な集中力のたまものなのかも。