なりそこないも、ふたなりのうち
2006/10/07
トランスジェンダー・性同一性障害
零れた女と書いて「零女」。おちこぼれの女という意味です。
ちょっと難しい言葉で言い替えると、零落した女。なりそこないの女のように見えるけど、その奥にはもう忘れられてしまった何かがまた見えそうな感じの女といったところでしょうか。
「なりそこない」という言葉も、悪い言葉ではありませんし、何か高貴なものになりそこなったことなのかもしれません。
「ふたなり」とは、二つのものになることです。西洋の両性具有というと既に二つを備え持っている状態のようにも見えますが、日本のふたなりは成って行くプロセスのことになるのかも。
トランスジェンダーとは「性別越境者」なんて漢字で書かれることがありますが、越境者なんていうと、何か確信があって自分の意志で越えてゆくようなすごさがあります。
そういえばこれまで、トランスの世界では「自分の意志」という言葉をよく見かけたものですが、これは要するに手術を担当する医者が臨床の現場で「本人の意志」を確認することから始まって、彼らが文書にしたものが広まって、彼らの語法が知らず知らずのうちに広まりすぎたようなきらいがあります。人間が言葉に振り回されてしまっているような現象すらあります。
トランスのことで意志について聞かれても困ってしまいます。なるようになったんじゃないかと思いますし、これからもなるようになるかもしれません。なりそこないでも、それはしょうがないことです。
成るというのはプロセスのことですから、なりそこないも、ふたなりのうちに含めてもいいわけなんですね。
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