細川涼一『逸脱の日本中世』の第1章に、謡曲「桜川」の話がありました。

「桜川」の話は、九州日向国に貧しい母と男の子があり、桜子というその子は自ら身を売ってそのお金を置いて故郷を離れ、母はわが子を探して旅に出て狂女となって関東常陸国桜川のほとりにたたずむところを、寺の僧に呼び止められ、その寺の稚児となっていたわが子と再会するというストーリーです。
有名なので話は知っていましたが、伝えによると関東管領・足利持氏が世阿弥に作らせたものというのにはびっくりでした。

細川氏の論調は、子を失った母の悲しみと物狂いという観点からのもので、お寺が稚児を人身売買のように買うこともあったのだとも述べています。それはともかく、もう少し違う観点から考えてみたいと思います。

足利持氏といえば、足利幕府と対立し、永享の乱(1438〜9)を起こして敗れて自害したのですが、そのとき幼な子の春王と安王を日光山へあずけて生き延びさせたのです。謡曲「桜川」は、伝説の通りなら、この乱よりも前の作ということになります。
血筋の良い幼い二人が日光へあずけられたということは、二人は稚児になったということです。
乱の後も関東の戦乱はおさまらず、結城氏らが、春王と安王を奉じて反乱を起こしました。桜川からそれほど遠くない結城城に籠城して数ヶ月、やはり形勢は不利で、落城寸前に、結城氏朝は、春王と安王を女装させて脱出させたという話があります。しかし二人はすぐに敵に発見され、氏朝も切腹して、反乱軍は敗れました。
二人の「女装」についてですが、稚児装束なら敵にばればれですし、稚児が二人いることは知られているわけですから、少女姿でも調べればわかってしまうことでしょう。ともかく二人だけでも生かしたいという思いだけでの行動としかいいようがありません。

さて「桜川」の話にもどりますが、母の貧しさというのは、やはり武家だったために生きるすべを身につけていなかったのが原因なのだろうと想像します。父は戦死以外にないのでしょう。敗死あるいは不名誉な死に方だったのかもしれません。当時の人ならそう見ると思います。だとしたら、その死を弔うことができるのは、一人息子をおいては他にありません。桜子がすすんで稚児になったのはむしろ当然のことになります。さらに母の物狂いは、死んだ父の霊の現れのようにも見えますし、さらには自決した足利持氏の亡霊のようにも見えます。
もし「桜川」が作られたのが実際はもっと後の時代だったとしたら、人々は美しく哀れな桜子から、結城城で敗れた春王と安王を連想し、あの世での親子の再会を物語の中に見たのかもしれません。だとしたら「桜川」を作らせたのは、あの父なんだと、そういう伝説ができてもおかしくはないのです。

テーマ : 能楽 - ジャンル : 学問・文化・芸術

Comment

Comment Form

(変更可)
管理者にだけ表示を許可する

Trackback