鳩子のホームページやブログの内容は、トランスジェンダーとか性同一性障害等々を主テーマにした感じのサイトと比べると、ちょっと違ったおもむきがあるようです。なかなかああいうのは書けません。というか、すぐに役立ちそうな実用記事さえも少ないのです。ときどきそういうのを書こうと努力している形跡はみられます。いくつかの検索エンジンで「GID ホームページ」をキーワードに検索したとき、鳩子のホームページがけっこう上位表示されたとき複雑な気持ちにならないこともありません。

 一世代くらい上の人たちの間にはかつて学生運動というのがありました。当時の進歩的評論家の人たちの中には、その後は少数民族の問題や民俗学、古代史といった本を書いていた人が何人かいて、そういう意味ではこのブログのテーマとも必ずしも縁がないわけではないのですけれど。

 本で読んだ知識ですが、学生運動の人たちが議論していたテーマのうちで、心に残っているものがいくつかあります。
 その一つは、道に一輪の美しい花が咲いていて、その花を踏みつけて前に進めば人類が確実に幸福になれることがわかっているとき、君は花を踏みつけて前進できるか、というお話。
 私なら道にしゃがみこんでずっと考えこんでいるうちに、たそがれどきがやってくることでしょう。将来のことではなく今現在のことであるなら、たとえば川で子どもが溺れているのを見たとき、迷わず助けに行って、そのとき知らずに岸辺の花を踏みつぶしていたということもありえます。でも将来のことで確実にそうなるという確信を持てるのかという問題もありますし、踏みにじられた花に涙を流せることも、じゅうぶん幸せなことなのではないかしらとか、あれこれ考えてしまうわけです。
 一応「ノンポリ・トランスジェンダー」のタイトルはつけてみましたが、この記事は未完です。

(前回のおかまの語源説はありきたりの結論でしたが、「おかま」という言葉に差別感を感じるという根拠もわかるような気がします) この記事については。3/18 「航海日記」に少し続いています。
「前回の」とあるのは3/11「かまどと、ある語源の話(その2)のことです。

Comment

鳩子さんの感じ方、共鳴します

私は現実には、無神経に花を踏みにじっていても気がつかないくらいのガサツな人間ではありますが、あえて考えると、そういうことは、非常に重要な事と思います。
性同一性障害とか、ISとか、まったく違うけれど鬱とか、あらゆる意味でのマイノリティーとか、社会的弱者と表現される場合の女性や子どもとか、それは目の前の花と同じではないかと思います。
うまく表現できませんが、自分の名誉や金や欲のために前進しようという人間にとっては、花一輪踏んでも先へ行く必要があると思いますが、花一輪を踏まないということが目的の人間には、先へ行く必要さえない訳ですし・・・

小さい花

男女平等△推進員さん、おっしゃる通りですし、また
本文に出てくる革命家が言うには、前進すれば全ての弱者も幸福になるというのですが、人間界と自然界は別のものという考えでもあるようですね。
私も子どものころは川の土手のレンゲソウの上でごろごろしたりしましたけど、お尻の下に敷くというより、自然と一緒に生きてたような感じです。
広い場所にたくさん咲く小さい花が私の好みです^^;

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