Archives: 200706
高校のときの数学が、なぜあれほどできなかったのか、思い出してみると、あるとき1週間ほどさぼったために、その直後からついていけなくなったようなところがあったかもしれません。あれは何か積み重ねのようなもので先へ進んで行くのかもしれませんね。

その点、現代国語などは、何の準備も必要なく、気が向きさえすれば、いつでも授業に入って行けたようなところがあります。
あるお父さんが高校生の息子の国語の点が悪いので良いアドバイスはないかというので、普段から新聞や本を読んだり日記を書くのも良いかもしれませんと適当に答えたことがありますが、数学と違って即効性のある勉強法というのはないのだと思います。

そして現代は即効性のあるほうへ人が流れてゆきます。ちょっと勉強したら良い点がとれたから自分は理系向きなのだと思い込む人も増えているのかもしれません。

世の中は一つの方向への積み重ねばかりとは限らないわけです。そうではないことがたくさんあります。いちばん下に積んでおいたものが、本当はもっと表面に置くべきものだったり、順番がひっくりかえったり、見向きもされないことがいちばん大切なことであったりします。

従来の"TS道"や"GID道"は、単一方向への積み重ねの発想そのものですから、そういうのにちょっと疲れたなと感じたら、新しい別の発想を取り入れるのが良いと思います。
アルプスの少女(ハイジ)子どものころの本で、もう一度読んでみたい本の一つ、ヨハンナ・スピリの『アルプスの少女』。昭和30年代の講談社の本の挿絵は、蕗谷虹児でした。(画像は折り込みのカラーの口絵)
「アルプスの少女ハイジ」というアニメにもなりましたが、10代なかばでテレビはあまり見なくなってたせいか、主題歌以外はあまり記憶がありません。
原作はかなり長い物語なので、抄訳というかダイジェスト版が多いので、訳者によって取捨選択が違うので、違う本も読んでみたいような気もしますが、時間があるかどうか。

今ぱらぱらめくってみると、ところどころに歌が挿入されているのですね。ミュージカル仕立てのような感じもします。実は鳩子の書きかけの『星のイヤリング』、
http://hatopia.hp.infoseek.co.jp/marchen/earring1.htm
いくつか歌詞のようなのを挿入したのは、知らず知らずにこの本の影響があったわけなんでしょうね。そういうことってあると思います。
6/16の「文系なものですから」で書いたことは、限られたデータだけで判断できる人と、データが変わる可能性を想定して判断できない人がいるのではないかということでした。後者が文系ということでした。

けれどある種の行動となるとどうでしょうね。データが明らかに不足だとわかっているので、判断できないというか、行動にも移せないというか、恋愛問題などで考えすぎで、奥手になるのは、理系タイプなのかもしれませんね? 
文系的発想では、気持ちが変わらないうちに行動に移さないといけないですし、あとから新発見がついてくるものなのかもしれません。

でも私はギャンブルはまったくダメなのです。子どものころメンコやベーゴマくらいやっていれば、人生のある時期に思い切ったことができるのかもしれません(フルタイムのトランスライフとか)。
色あせないうちに記憶にとどめておこうという行動はできるのですが、2つのうち1つを選ぶのはあまりできないです。
でも1つに決めないことで、はじめて見えてくるものもあるのではないかと思うのです。つまり「決断しない力」ですね ^^;

話変わってまた選挙があるそうですが、そういうときによく耳にする「実行力」とか「決断力」とはなんのことなんでしょうね。言葉に対する「鈍感力」のなせるわざではあるのでしょうけど。
あちこちのお寺にまつられる観音さまは、女性の仏さまだと思っている人が多いことでしょう。鎌倉の長谷観音の住職さんがコメントされたページを読むと、男女どちらでもありうるようなお話しでした。
観音さまは、古代のインドでは男性だったそうで、勢至菩薩が知をつかさどるのに対して、観音菩薩は慈愛をつかさどったことから、女性的だったのでしょうか、中国から日本へと伝わるうちに、ジェンダーがトランスして女性のようになってしまいました。男性から女性なのでMTF?。

道端に多いお地蔵さまは、石の像を見ても男性のお坊さんのようです。インドでも男性だったらしいのですが、生前は女性だったそうです。もとはインドの神さまではなくて、西アジアで信仰された地母神だったのが、仏教に取り入れられて、ジェンダーがトランスして男性になったらしいです。お地蔵さまが日本で人気があるのは、子どもにも見えるし女性的な感じもしなくはないようなところにあるのかも。

関係ないかもしれませんが、西アジアの地母神といえばギリシャ神話にも取り入れられたキュベレーという神さまがいました。キュベレーは両性具有だったけれど暴れ者だったために去勢されて女性になったという話があります。

観音さまについて、おおもとのインドの仏典に男性として描かれるのだから、男性だと、無理にそうしなくも良いわけなのでしょう。たくさんの国へ広がっていった宗教というのは、いちばん最初の時点でもう広がっていこうという志向があったみたいで、体系が整ったときには既にさまざまの国々の神々が寄せ集まっていたものだったのでしょう。中国や日本に広がっていくときも中国や日本の神さまの性格が加わっていったわけです。というふうに考えると、やはり男女どちらでもありうるということなのでしょうね。
塔
むかしポータブルのワープロ専用機というのがありました。それを初めて買ったとき、使える漢字がJIS第一水準漢字の3000文字ちょっとだけでした。第二水準漢字が使えるようになるには更に数万円もするオプションを買わなければなりませんでした。
第一水準、第二水準という漢字の区分があることを知ったわけです。

「丼(どんぶり)」という漢字は第一水準にはないので、食堂のメニューをプリントするときには、使えません。その他いろんな不平が出たようですが、そんな漢字の選別をしたのはどんな人かというと、国語学者ではなく理工系の人たちなのだそうです。

もし国語審議会のようなところに漢字の選定を任せたら、議論ばかりで10年かかっても何もできなかったろうという人もあって、日進月歩のコンピュータの世界のことですから、そのとき集まった統計データを元にして、期日を決めて、バサッと割り切って区分けしたわけなのでしょう。文系の人にはこういうことがなかなかできないみたいです。

「性別違和感」なんていう言葉を見ると、あるのかないのか、ただ考え込んでしまうばかりです。
1/9に擬娩について書いたとき
http://hatopia.blog10.fc2.com/blog-entry-302.html
ネットを検索して調べることはしなかったのですが、ちょっと調べてみたら、
「擬娩」はフランス語で「クーバード」と言い、そのもとの意味は「孵化」。鳥のメスが産んだ卵をオスが温めることにたとえて言われたようなのです。
「couvadeとはもともとフランス語における"couver(= hatch<子供を産むこと、卵が孵化することなど>)"を語源とし、それは古来より世界各地で行われていたクーバードという風習に由来している。」(http://x51.org/x/05/06/2234.php)というのがありました。(hatchは英語)

鳥のオスが卵を温めて雛をかえすことと、人の男性がお産のふりをする擬娩とは、たまたまかたちが似ていたので後からクーバードと呼ばれるようになったのではあるのしょう。けれど、人の男性のそういう行為自体が、もともと鳥の行為の模倣から始まったものだったと考えることもできます。コウノトリが赤ちゃんの命を運ぶように、父親による鳥の模倣行為がなければ、人間は命をさずかることもできなかったのかもしれないのです。

「クーバード症候群」とか「男性の神経症・精神病患者」などと書かれたページもありましたが、西洋医学の今の視点だけで全てをなで斬りにするとそうなるのでしょうか。フレーザーやレヴィ=ストロースのような視点が必要です。

人が鳥を模倣するというのは、よくあることで、鳥装のことも書きました。
http://hatopia.blog10.fc2.com/blog-entry-333.html
ちょっと書き足らなかったですが、人の衣服の起源は、鳥の模倣から始まったのかもしれないのです。
バレンタインデーの起源についても、キリスト教以前の習俗で、鳥が交尾する日だったという説もあります。

さて英語のhatch の語源を調べたいのですがまだわかりません。鳩子はhat…という言葉にこだわってしまいます^^;。潜水艦や自動車の屋根の出入口をハッチというのは、卵の殻が開いて中から出てくる感じのことなのでしょうね。
最近ニュースで話題になった「赤ちゃんポスト」は、英語で"Baby Hatch"と言うんだそうです。このほうが良い言葉ですね。卵から早く出すぎたのでもう一度卵の中にかえす(戻す)意味になります。
ところで日本語では卵の中から出てくることを「かえる」と言うのです。この世に帰ってきたという意味なのでしょうか。だったら命は大切に使わないといけませんね。

英語のhatchは「くぐり戸」という意味が古いようですが語源といえるかどうか。
鳩と
日本の中世の話で、若い修行僧が、自らの煩悩を断ちきるために、自分で陰茎を切断したという話を読んだことがあるのですが、精巣を残したままなので、僧はその後も煩悩に苦しんだのではないかということでした。
日本人はこの程度の知識しかなかった、というか、去勢の知識というのは、遊牧民族がたくさんの家畜を飼い馴らすために考え出したものらしいのです。日本人は遊牧民族ではなかったのですね。
日本でも輸送用に馬を飼うことは古くからあったと思うのですが、暴れ馬をなだめるためには、やっぱり祈祷するとかの方法しかなかったのでしょうか。
wikipediaの解説に「敵に奪われても繁殖に使えなくする」のも遊牧民の去勢の目的の一つのように書かれてありましたが、日本ではそういうのがなかったので、将棋の駒も敵に取られたら使われてしまうことになってます。

武士の時代になると、暴れ馬を上手にてなづけて初めて一人前の武士という考えだったようです。肉体改造を望まないトランスジェンダーには、武士や祈祷の考え方が参考になるかもしれません。

日本人は「自然に人が手を加えることを潔しとしない」という説明がありますが、これは比較的後世の見方のような気がします。
実際はもっとアニミズム的で、人間ではない馬にも、人間と同等の魂、または人間以上の森の神霊が宿ると考えるわけですから、切り取られたからだの部分にも個別の魂が宿るという考えだったのではないでしょうか。

神々への生贄にする魚などの動物を選ぶとき、その印に片目をつぶしたというのは聞いたことがあります。まもなく別世界へ送り出されてしまうわけですから、遊牧民の行なった去勢とはだいぶ意味が違います。
イレズミは邪馬台国時代からあったらしいですが、肉体改造というより化粧の一種なんでしょうね。
鳩子HPの鳩子の詩集を見ていると、タイムスリップのようなものがモチーフになっていることが多いことに気づきます。
別々に流れていた二つの時間がどこかで交差するようなもの、一つは明らかに虚構の世界のものかもしれないけれど、そうともいえないような。
そして同じに流れていたと思っていた二つの時間のうち、一つの流れがだんだん遅くなって行ったり、止まってしまったり。

人は生れるとき両性具有で、死ぬときも両性具有なら、途中の年月をスリップすることも可能でしょう。
もともと人は両性の存在であったとしたら、多くの人は片方の性をスリップして生きてしまっていることになります。でもそのようにジェンダーをスリップしてしまうちからが、もともと人に備わっているとしたら、もう一度スリップしなおすことも、できてしまうのでしょうね。

今年は雨が多そうなので、すべらないように注意しましょう。
『転ぶ女』http://hatopia.blog10.fc2.com/blog-entry-156.html