男と女の関係も需要と供給のバランスがあるのでしょうから、このごろのトランス業界はどうなのでしょうか。GIDブームで女が過剰になってるでしょうし、特に若い人ですよね、若い人が増えれば年配男性も若い子のほうに目が行くのはしかたないでしょう。
一般の男女の人口の比率は、今は50歳過ぎで等しくなるそうで、適齢期の男女では男が多くなってしまったわけです。現代は子どもが死ななくなったからです。医療が進歩したからではなく、経済的に豊かになったためにすぐに医者に見せられるからというのが本当のことらしいです。
江戸時代の江戸の町では、男のほうが圧倒的に多かったそうで、男が結婚できないのは当たり前、間男をするか女郎を買うかでしょう。だから子どもが生れて父親が誰なのかうるさいことはあまり言わなかったらしいです。
現代はプチ江戸時代に近づくのかというと、そうじゃないでしょうね。男が多かったのは地方から職を求めて都市に移住した人が多かったせいですから、今は女性もたくさん移住します。今の東京は若い男女の人口の差がどんどん等しくなってると思います。結婚しない人が増えたのは、需要と供給のバランスとは違う問題なのでしょう。
でも都会で男女の数の差がなくなってくると、激しい失恋というのも少なくなってくるかもしれません。それで流行歌でも失恋の歌がはやらなくなったのかも? ま、それだけが理由ではないでしょうけど
一般の男女の人口の比率は、今は50歳過ぎで等しくなるそうで、適齢期の男女では男が多くなってしまったわけです。現代は子どもが死ななくなったからです。医療が進歩したからではなく、経済的に豊かになったためにすぐに医者に見せられるからというのが本当のことらしいです。
江戸時代の江戸の町では、男のほうが圧倒的に多かったそうで、男が結婚できないのは当たり前、間男をするか女郎を買うかでしょう。だから子どもが生れて父親が誰なのかうるさいことはあまり言わなかったらしいです。
現代はプチ江戸時代に近づくのかというと、そうじゃないでしょうね。男が多かったのは地方から職を求めて都市に移住した人が多かったせいですから、今は女性もたくさん移住します。今の東京は若い男女の人口の差がどんどん等しくなってると思います。結婚しない人が増えたのは、需要と供給のバランスとは違う問題なのでしょう。
でも都会で男女の数の差がなくなってくると、激しい失恋というのも少なくなってくるかもしれません。それで流行歌でも失恋の歌がはやらなくなったのかも? ま、それだけが理由ではないでしょうけど
ある人の本、というか内田樹という人の『下流志向』という本によると、最近の子どもたちが社会との最初の関係をもつのは、消費者としての関係だというお話。コンビニで買い物をするときに、子どもも大人も消費者としてまったく同等の待遇を受けることが、幼い子どもにとっては全能感に等しい快感になり、幼くして消費者としてのアイデンティティを確立して、それがその後の人生をも決めてしまうこともあるのだとか。若い人がお金にこだわるのは、拝金主義だからなのではなく、消費活動こそが自己の開放になるためなんだそうです。学校においては金銭に代わって苦役を差し出すことによって等価交換に徹するのだそうで、賢い消費者であるためには、幼い自分にあらかじめ価値のわからない勉強に対しては、勉強しない(苦役をしない)ことによって、損をする可能性を賢く回避するのだそうです。それで学力も低下するわけです。
消費社会の消費生活の論理がそんなところまで支配してしまうので、知的な進歩というものも必要は感じないわけなのでしょう。
経済や物質文明の進歩は、今の日本はもう望むべきではないと思います。そういったことを最優先する考えは、捨てるべきです。しかし知性や精神的なものは、人や自然を、そして世の中や歴史を理解するために、もっともっと成長しなければならないはずです。このへんの兼ね合いのことを考えないといけないのでしょうね。
政治は利害対立の当面の妥協のための方便であって、精神的とはいいがたいものです。権利を主張しあわないで全てが平和であることが理想なのですから、権利が増えることが進歩だというのはどこか倒錯しています。けれどこういう理想や現実の論から離れて、少しでも値切って得をしようという消費活動として政治運動を考えてしまうのは、とても寂しいことです。
お目目パッチリ簡単画像加工^^;
2007/04/24
その他・生活と文化
難しい話題が続いたので、加工画像のお話(^o^)加工といってもあまり難しいことはできませんので、いちばん簡単な、目を大きくする加工です。
◇作り方◇
よく撮れた顔の写真画像を用意します。正面を向いて首を傾けてないもの。左の写真、オリジナルは360×480ピクセル。
トリミングで、目の付近を横長(360×35)に切り出します。
同じく、そのすぐ下の鼻から唇の少し上まで(360×55)を切り出します。
切り出した目の画像を、360×40 に縦に拡大します(+5くらいが不自然にならなくて良いところです)。
同じく鼻の画像を、360×50 に縮小します。
目の画像が+5、鼻の画像が-5で、2枚合せたサイズは変化はありません。その2枚を元の画像に貼りつけて、できあがりです。
お目目ぱっちりの可愛い顔になりました(*^o^*)。でもこういう顔の人はどこにもいないことでしょうね。
奈良県の吉野から三重県の熊野までの広い山岳地帯は、平安時代から山伏などの修行者の山だったらしく、大峰山(大峯山)と呼ばれます。秋夜長物語に登場する稚児の梅若が天狗にさらわれて洞窟に閉じ込められた場所も、大峰山でした。大峰山は天狗の棲む異界のようなイメージでした。そこから脱出してまもなく梅若は入水して果てたのでした。
また源義経が兄頼朝の追手から逃れて、奥州へ旅立とうとしたときも大峰山を経由しています。そのとき京から追いかけてきた静御前が義経と別れたのは、山の入口の吉野だったと思います。この二人もまもなく破滅してゆきます。
元服男性の義経は山を無事通過しましたが、白拍子の静御前は手前で止められ、稚児の梅若は一時幽閉されただけということになりますが、そういったことと女人禁制の山であることとの関連は、よくわかりません。
今でも大峰山の一部の山は女人禁制であるらしく、熊野の周辺で行われる祭礼行事のなかには、男子だけしか関われないものも少なくないようです。同様のことは各地のさまざまな祭礼で行われていることではあるのですが……。
女人禁制の意味については、山の神が女神なので、女子を近づけなければ、神は怒らず豊饒が約束されるからだといった説明がされています。でもそれ以外の理由もなくはないのかもしれません。
梅若や義経の物語には、どうしても死のイメージがつきまとっています。平安時代ごろは、修験者たちの修行の目的が安楽死であったことと、それは符合します。海でも山でも、そこは死への入口なのですから、やはり男子たちの中に女子が混じると、「生」があちこちに誕生してしまって、「生」の行き場がなくなってしまうからのようにも思えるわけです。
熊野の周辺の祭礼で行われる「女装」は、人間の女を装うのではなく、山の神が現れたときの表現なのでしょうね。山の神が、女装する人に憑依するわけなのでしょう。
落語の「長屋の花見」では、タクアンのことを卵焼きというのは、一種のウソなのでした。ウソだということはわかっていても、せいいっぱいみんなでウソを楽しんでいるわけです。「許されるウソ」というのもあるわけです。
ガンという病気を本人に告知しないで、本人も看病する家族も、もうじき癒るという前提で、毎日を前向きに生きてゆくというケースもあります。看病する家族は最初からウソと知っているわけですが、本人はしばらくたってから、それとなく気づいて、ある段階からそれが確信に変わってしまっても、家族のことを思って、本人自ら同じウソの世界に生きるようになるといったケースです。
金庫破りのジミーが、鍵をあけてしまっても、周囲は深い愛情をもって今まで通りのウソの世界でジミーを受け入れようとしました。
哀れなウソというのもあります。自分のことを良く見せようとしてウソをついて、そのウソがばれそうになるとまたウソをつく。そうやってウソの上塗りを続けているうちに、けっきょく自分を破滅の道に追い込んでしまうという少女の話が、夢野久作の小説にあったのですが、似たような実話を聞いたこともあります。そういうウソは上昇志向ということではなく、何か心の病によるものなのでしょう。
個人的にどうしても困るウソがあります。鳩子のことを二次元アイドルだと思ってメールをくれる男性のことです。ネット上では二次元アイドルと見てもらってもかまわないですし、オタク男性のバーチャル恋愛を否定する気もありません。でもそういう人は二次元に徹するのがオタク道だと思うのです。そういう男性がもし鳩子にメールするときは今までにない大きな決意が必要になるはずです。鳩子は生身の存在なんですね
スポーツといえば思い出すのは、1960年代の日本の子どもたちの好きだったもので、
「巨人・大鵬・卵焼き」
野球の巨人と相撲の大鵬で、3つのうち2つがスポーツに関することでした。
卵焼きはまだ、ちょっぴりぜいたく品だった時代です。小学生の遠足や運動会のときのお弁当のおかずの定番でした。
何年か前にテレビコマーシャルで、南伸坊という大きなおにぎりのような顔のおじさんが、チキンラーメンにお湯をかけて生卵を載せておいしそうに食べてました。1960年代当時、日清のチキンラーメンは30円。卵は15円くらいでしょうか。合計45円。週刊誌が30円の時代ですから、今なら10倍。インスタントラーメンと生卵で、今の450円くらいに相当します。
「長屋の花見」という落語では、卵焼きが買えないので、黄色い色が似ているタクアンを卵焼きと思って長屋のみんなで仲良く分けて大事そうに食べてました。「そっちの卵焼きのシッポじゃねぇほうを一切れ食いてえ」というのが八っつぁんのセリフ。「やっぱりカマボコは練馬に限らぁ」とも言ってました(大根の漬け物がカマボコでした)。卵焼きが「夢」だった時代なのでしょう。
コロッケが5円だったのは1950年代でしょうか。60年代では特売日にならないと5円にはならなかったように思います。60年代はアンパンも牛乳も15円くらいだったような……。
漫画家の松本零士氏があるニューミュージック歌手と、歌詞のオリジナル性のことでもめているそうですが、「夢は時間を裏切らない」とかいう歌詞でした。
何十年か前の流行歌の歌詞では、よく使われる言葉に「港」「霧」「涙」とか、そんなのが多かったらしいのですが、今では「夢」「時」「裏切り」という言葉はどれもかなり上位にランキングされていると思います。そういう今風のありきたりの言葉を知らず知らずのうちに松本氏は使っていたということなのでしょうね。
「夢」という言葉は、最近では政治家が選挙民向けに使っていることを知りました。何か税金で買える夢みたいなので、その結果はおそろしい悪夢になってしまうのかもしれません。
夢は、儚さや哀しみとともにあったり、あるいは「夢と冒険」というセットのものであったと思います。
いつから変になってしまったかというと、やっぱり「自分探し」とか「自己実現」とかいう言葉が流行りだしてからでしょうか。
何十年か前の流行歌の歌詞では、よく使われる言葉に「港」「霧」「涙」とか、そんなのが多かったらしいのですが、今では「夢」「時」「裏切り」という言葉はどれもかなり上位にランキングされていると思います。そういう今風のありきたりの言葉を知らず知らずのうちに松本氏は使っていたということなのでしょうね。
「夢」という言葉は、最近では政治家が選挙民向けに使っていることを知りました。何か税金で買える夢みたいなので、その結果はおそろしい悪夢になってしまうのかもしれません。
夢は、儚さや哀しみとともにあったり、あるいは「夢と冒険」というセットのものであったと思います。
いつから変になってしまったかというと、やっぱり「自分探し」とか「自己実現」とかいう言葉が流行りだしてからでしょうか。
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