Archives: 200703
茨木のり子という人の「わたしが一番きれいだったとき」という有名な詩のパロディを書いてみました。

私が一番きれいだったとき
森が灰色の道に変わり
しらじらとした空に
小鳥のさえずりを聞いた
鳩子
私が一番きれいだったとき
人々はバスに乗って去り
私は部屋の窓を閉ざして、
2枚のワンピースをかわるがわる着ていた。

私が一番きれいだったとき
トラックが壁を揺する部屋で
遠くの国の戦争のニュースを
ラジオで聞いた。

私が一番きれいだったとき
石畳の上を歩き続け
ハイヒールの傷みを忘れたころに
懐かしい男に出逢った

私が一番きれいだったとき
変わり果てた森に戻って
インターネットも知らずに
詩を書き始めていた
お堂に日差しなんとなく杉浦由美子著『腐女子化する世界』という本を読んでみました。
腐女子という言葉について説明しますが、つまり「やおい」とかボーイズラブのコミックや小説が大好きな若い女性たちのことで、自分たちのことを自嘲してそう呼ぶのだそうです。
ボーイズラブというのは、美少年どうしの同性愛のストーリーなのですが、なまなましいものではありません。作り手も女性たちです。
「やおい」は既存のコミックなどの少年キャラクターを組み合わせて二次的なストーリー(同性愛)に作ったもので、同人誌などで出まわっていて人気があるようです。手塚治虫の『バンパイヤ』に登場するロックとトッペイの二人の少年をラブストーリーに描いてる人のサイトで、短いストーリーのものを見たことがありますが、絵柄も手塚調のしっかりしたものでなかなか面白いものでした。

Wikipediaの「やおい」の項目を見ると、社会学者たちのいろんな論説があるようですが、ちょっと的外れな感じのもあるみたいです。恋愛ストーリーとしては、昭和初期の吉屋信子の少女どうしの友愛物語に感じられる同性愛的なものの系譜にはあるのでしょう。少年と少女は同質のものなのですから、やおいの本質は少年どうしに置き換えただけの「異性愛中心主義」であるか否かとかの論議をしてみてもしかたないでしょう。なまなましさに慣れた大人からは見えないかもしれませんが、思春期の羞恥心はさまざまな迂回路を通って表現形態を得てしまいますし、年齢的な思春期を過ぎても決して消えない記憶なのです。(ふだんの現実の性愛に対しての後ろめたさ、ときには贖罪に近いような意識があるのかどうか、あとで考えてみます)

既製の物語を読んで結末が不満であるとかにこだわるのは女性のほうが多いと思います。「やおい」の語源は「山なし、落ちなし、意味なし」だそうですが、既製の作者が意図した物語の山や谷の地図が、読み手には少し違う地図に見えることはよくありますから、谷が山に見えれば別のストーリーが展開します。同じ地図に見えたら感想も同じになって面白くありません。
腐女子の人たちは、女オタクという認識をされているようですが、男性のオタクと違う点は、孤独に一人だけで楽しむ傾向は少ないような感じ。

で、本のことですが、自分探しとか自己実現とかいって女性誌にあおられて競争するのはもうやめにして、同好の仲間と趣味に生きる(腐女子化する)のが良い、という感じだったでしょうか。それが「落ち」だったと思いますが、そういう「落ち」よりも、心地よく一気に読めるところが魅力の本なのかもしれません。

蛇足ですが、Wikipediaに、ボーイズラブのストーリーは、ゲイの人から違和感が表明されていると書いてありましたが、当たり前です。で、私も「女装小説」というのに違和感を感じています。こういうのは、感情移入するなというのは無理なことですから、ありえないことだらけで違和感だらけです。違和感の少ないのを1つ読了したことはありますが、ああいうのは別のタイプのオタクさんが読むものなのかも。
こもれ日ジェンダーというか、男らしさとか女らしさとかについての葛藤やら煩悩やらの超越した地点(それを彼岸と表現してみます)のことを、ぼんやり考えます。

戦争にあけくれた20世紀以後は、社会の男らしさは大きく変わらざるを得なかったと見ます。他の時代も戦争は多かったかもしれませんが、徴兵制度のような組織化された軍隊に特徴がある時代でした。官僚組織は軍隊組織と同じものですが、社会組織のすみずみまで官僚組織のようになっていった時代の男らしさは、男性本来の一匹狼のような存在を認めなくなりました。一人一人が監督となって物を作るという男性らしさも軽く見られますし、男性が美しくなくても良い時代にもなってます。歌を忘れたカナリア状態という感じ。

女性らしさもそういう社会の影響は受けるのですが、組織に関わる程度が低いので、比較的変化は少なかったと見ます。現代風の男性らしさは、社会組織によってからだにたたきこまれることが多いのに、女性らしさは時には教養のように言葉で語られることが多いというのもあります。
女性らしさとは何かというと、調和の力とか、伝承すること、周期的なリズムとかいうものなんでしょうね。周期的なものの代表は月の周期ですけれど、揺り篭のリズムもありますし、季節や時間を敏感に察知して、この道はいつか来た道なんていう感じで、それなりに進歩を確認できることもあるかもしれません。

そういう女性らしさに男性も少し近づいてみるのも良いかも。これからも社会の技術の進歩は続くのでしょうけど、文明の進歩は続くとは限りません。男性の中の女性らしさを排除してきたのが20世紀だったような気もします。男性にとっての伝承行為は、直接の師弟関係によるものだったのでしょうけど、そういうのはもう望むべくもない世の中になってるみたいですし。
タイトルは看板倒れでした。
日本文化というのは本来がオタク文化ではないかという気がします。

スポーツでも、柔道、剣道など、「道」にしてしまうわけです。そこにはとても真面目な求道者たちがいて。マラソンでも、瀬古選手・増田明美選手の時代は、とても悲壮感を感じました。最近はそういう選手は少ないですが、高橋尚子選手のはらはらさせるところは、悲壮感の延長線上のものだと思います。(柔道や剣道のことはわからないのですが)

FtMトランスジェンダー・サイトの中にも、小数ですが、かつてのマラソン選手のような悲壮感を感じてしまう人がいます。「がんばって」としかいいようがないような、でももう少し琴の糸をゆるめてほしいようにも思います。
果てしなく努力してゆくさまは、なんとなく「GID道」みたいで……。

MtFのGIDさんのサイトになると、法律オタク、医療オタクという感じもします。でもまだ「道」までは昇華していないというか、普通の職人さんのように、具体的な技術の細かい解説はできますが、普遍的なことを語る言葉がまだ見つからないように見えます。

鳩子のサイトはどうかというと、技術解説はあまりありません。精神論は少しあるかもしれませんが、一筋の「道」のようなものには懐疑的です。ちょうど江戸の若旦那のように、あちこちの芸や道楽に首をつっこんで、批評精神はあるけれど一つもものになりません。でも、あえていえば「茶道」に近いかもしれませんね?。
「道」というのは、どこか自閉的で、広い意味でのオタクの文化のような気がします。

ここからは脱線ですが、
ここでふと「オタク道」という言葉が既に使われているのではないかと思いました。やっぱりありました。
http://www.ne.jp/asahi/otaphysica/on/column01_0.htmこのページはすごいですね。オタクとは何かが、とてもわかりやすいです。
でも現代思想のパロディとして笑いながら読むのならいいのですが、あまり真面目にラジカルに走りすぎると、何も語らないのがオタクだという自己矛盾に陥ってしまうのではないかと心配です。
純粋なオタクは社会を動かそうとは思わないのでしょうが、普通なオタクは数がまとまってしまう傾向がありますから、社会への影響のことも考えないといけないのでしょう。
2/27の「悲しみの子守唄」は、昔の少年というか稚児の両性具有性について書いたのです。
こういう問題について、視覚的な美しさのことだけ書く人が多かったのですが、目を閉じて空想したことを書きました。ただの空想で、感情に訴えるものではありますが、面白い見方ができたと思います。水辺に消えた姉妹たちの霊のことや、少年がなぜ学問にいそしまねばならないかを書きました。
瞳を閉じていたから書けたのでしょう。

そんなことは、今まで何回かありました。例の「おかまの語源」も、土かまどの丸い形状を凝視するのではなく、目を閉じていたら、カマドと囲炉裏のホドの連想が思い浮かんだわけです。「小股」の「小」も客観的な形状についてのことではなく、話し手の心の恥じらいによる婉曲表現であるというようなことも書いたと思います。
目を閉じると、オリジナルの世界が「見えてくる」ものなのですね。
健康についての人々の考え方が、ある時代から変わってしまったというお話です(上杉正幸さんという人の本を読んだ感想です)。

1960年代ごろまでの怖い病気の代表といえば、結核やコレラなどの伝染病だったそうです。それらの病原菌に感染していなければ、人は健康なのであって、大多数の人々は自分は健康だと思っていたらしいです。

1970年代ごろから、病気の代表は、ガンや脳梗塞や糖尿病などに変わりました。こういう病気には、はっきりした原因は見つからず、「慢性疾患」などと言われるそうです。原因がよくわからないので、生活環境の中で少しでも健康に危険と思われるものを排除したり、または健康食品にとびついたり、健康神経症のような時代になってしまっています。人々は皆、自分は何らかの病気をかかえていると思うようになり、健康な人は一人もいなくなってしまったかのようです。

高校野球の球児たちは試合に出場するために健康診断を受けるそうですが、昔の診断書には「数日間の競技に耐えられる健康な体であることを保証する」と書かれていたのが、今は「検査の時点において異常のないこと認める」としか書かれないそうです。医学は進歩することによって逆に自信喪失に陥ってしまったかのようです。
禁煙治療というのができて、健康保険も適用されるそうですから、一つの新しい病気が発見されたことになります。病原菌をほぼ駆逐してしまった医学の進歩は、今後も次々に新しい病気の発見に邁進していくのかもしれません。それだけが医学の自信回復ではないとは思いますが。
性同一性障害という病気も、このような時代に初めて発見されたものであるということは、肝に銘じておく必要があるのかも。
けっきょく「病気と上手につきあう」しかないわけなのでしょう。