鼠小僧の薄化粧
2007/01/25
トランスジェンダー史

江戸時代の盗賊、鼠小僧といえば、大金持の家だけを襲って、盗んだものを貧しい人に分け与える義賊であるとして、泥棒ながら庶民に人気のある人です。歴史学者の話では、彼が盗んだ物を庶民に与えた事実はなかったそうですが、幕末の時代に金持の商人や武家だけを狙って暴れまくったことから、打ちこわしや世直しのイメージと結びつけられたものと思われます。(画像は「鼠小僧と弁天小僧」東京都立図書館蔵)
鼠小僧がついに捕まってしまったのが、天保3年(1832)のこと。旧暦8月19日に、市中引廻しの上、打首獄門となりました。
その市中引廻しの様子について『盗賊の日本史』(阿部 猛 著)という本によると、
「大勢の見物人の中を、裸馬に乗せられて引き廻された彼の風采は、縅(縮)青梅の着物、白い襦袢、八端の帯で、薄化粧をしていた」とのこと。
女装のようないでたちだったようです。
明治の女性、長谷川時雨は、そのときの鼠小僧を実際に見たという祖母の話を書いています。
「祖母はよく見て知っていたといった。引廻しの時も、前のうまやから馬が出て大通りを通ったが結城(ゆうき)の着物をきて薄化粧をしていたといった。」
(旧聞日本橋・古屋島七兵衛)
服装については詳細ではありませんが、遠目に見ていたのかもしれません。
直木三十五も次のように書いています。
「市川小団次は鼠小僧次郎吉が刑場へ送られて行く時の姿を「薄化粧して縮の着物」と云っているが外の記録によると、黄八丈の着物という事になっている。」(槍の権三|重帷子)
上等の派手めな着物に化粧をしていたことは共通しています。
「黄八丈の着物」という異伝については、密通事件で死罪となった白子屋お熊(女性)が、やはり黄八丈の着物を着ていたそうなので(恋娘昔八丈)、何か関係があるのかもしれません。罪人の流刑地だった八丈島から「八丈」の連想がはたらいたのかもしれません。黄色は、かなり高貴な色なのかもしれません。
鼠小僧は、なぜ女装なのでしょうか。
世直しのヒーローは江戸時代初期の天草四郎のような女装的存在の系譜があるのは事実です。
また、仏教では罪深い存在とされた女性が救済されるには変性男子(へんじょうなんし)とならなければならないという考えがありました。成仏するときは男性に変わるという考えかたです。
仏教にはありませんでしたが、男性の救済----この場合は罪人ですが----のためにも、変性女子とならねばならないという考えが、あったかもしれないのです。
『盗賊の日本史』という本に、『古今著聞集』からの次のような話が載っています。
「承久(1219-21)の頃の話である。内裏に盗人を追いつめ、蔵人所衆の源行実が記録所の辺で搦め捕った。行実はその盗人に白い水干・袴に紅の衣を着せて、盗んだ品物を首にかけさせて、北の陣、朔平門の辺に送り、検非違使に引渡した。」
水干は鎌倉時代以後はおもに幼年や白拍子の着るものになっていったという事典の解説もありますし、「紅の衣」というのも、女装的存在といえると思います。
少なくとも鼠小僧の女装は、彼の個人的な趣味ということではなく、鎌倉時代やもっと昔までさかのぼれるようなものであって、罪人または男子の救済の問題が関わってくるような問題なのでしょう。
関連記事「幕末のアンドロギュノス」 「変生女子について」
『どろろ』
2007/01/24
手塚治虫のアンドロギュノスたち
昨日は幕末の盗賊の話でしたが、戦国時代の子どもの盗賊・どろろが主人公の手塚治虫のマンガ『どろろ』が、実写版映画で27日公開になるそうです。
手塚治虫の『どろろ』は1967〜1968年に少年サンデーに連載された漫画です。
戦国時代、ある武士が、自分の野望のために四十八匹の妖怪と契約し、そのために、生まれた子どもは肉体の四十八の部分を失った不具の姿でした。その子が百鬼丸です。彼は、生まれてすぐに、たらい船で流されて捨てられました。そして幼いころから放浪をつづけ、一匹の妖怪を退治するごとに、失ったからだの一部分を取り戻して成長してゆくというストーリーは、とても人間的で象徴的なドラマになっています。
百鬼丸の試練は、父の犯した罪への贖罪の旅なのだともいえます。
百鬼丸を「あにき」と呼んで慕う少年がどろろです。どろろは戦国時代の戦災孤児で、時には小さな可愛い盗賊にもなって、たくましく生きて来ました。百鬼丸が農民の少女を助けたときに、そばで焼餅を焼いたこともあるどろろは、本当は女の子だったことは、物語の最後の場面で明らかになります。女の子が男の子の姿をしていたことになります。
けれど、読者の側からすると、それはそれほど突拍子もないことではないように受けとめられました。それは百鬼丸が少しづつ本来の自分の姿を取り戻して変わってゆくわけですから、どろろだけが幼い姿のままで変わらないはずはないのです。
どろろは、女の子で生まれて男の子として育ったことになります。でも物語を読んでゆけば、男の子としての成長の結末が美しい娘でありうることに、心を動かされます。「女の子→男の子」なのか「男の子→女の子」なのか、それはどちらでもありうることが、少年としての両性具有性ということなのでしょう。
また戦国の世に男性的な視点からだけでは、平和は訪れないだろうというのが、作者のみかたなのかもしれません。
そして少年の成長のドラマには、必ず「別れ」が訪れます。(2005/5/26 改訂)
その他の手塚漫画について
→ http://hatopia.hp.infoseek.co.jp/manga/tezuka.htm
手塚治虫の『どろろ』は1967〜1968年に少年サンデーに連載された漫画です。戦国時代、ある武士が、自分の野望のために四十八匹の妖怪と契約し、そのために、生まれた子どもは肉体の四十八の部分を失った不具の姿でした。その子が百鬼丸です。彼は、生まれてすぐに、たらい船で流されて捨てられました。そして幼いころから放浪をつづけ、一匹の妖怪を退治するごとに、失ったからだの一部分を取り戻して成長してゆくというストーリーは、とても人間的で象徴的なドラマになっています。
百鬼丸の試練は、父の犯した罪への贖罪の旅なのだともいえます。
百鬼丸を「あにき」と呼んで慕う少年がどろろです。どろろは戦国時代の戦災孤児で、時には小さな可愛い盗賊にもなって、たくましく生きて来ました。百鬼丸が農民の少女を助けたときに、そばで焼餅を焼いたこともあるどろろは、本当は女の子だったことは、物語の最後の場面で明らかになります。女の子が男の子の姿をしていたことになります。
けれど、読者の側からすると、それはそれほど突拍子もないことではないように受けとめられました。それは百鬼丸が少しづつ本来の自分の姿を取り戻して変わってゆくわけですから、どろろだけが幼い姿のままで変わらないはずはないのです。
どろろは、女の子で生まれて男の子として育ったことになります。でも物語を読んでゆけば、男の子としての成長の結末が美しい娘でありうることに、心を動かされます。「女の子→男の子」なのか「男の子→女の子」なのか、それはどちらでもありうることが、少年としての両性具有性ということなのでしょう。
また戦国の世に男性的な視点からだけでは、平和は訪れないだろうというのが、作者のみかたなのかもしれません。
そして少年の成長のドラマには、必ず「別れ」が訪れます。(2005/5/26 改訂)
その他の手塚漫画について
→ http://hatopia.hp.infoseek.co.jp/manga/tezuka.htm
舞台女優になりたかったころ
2007/01/22
思い出
12/17「子どものころなりたかった職業」には書き忘れましたが、20代のころなりたかった職業に、舞台女優というのがありました。
たとえば三輪明宏のような人になるには、稀な才能がなければなれませんし、ニューハーフのような仕事には、あたしは向いていないと思いました。
そこで漠然と思っていたことは、日本には歌舞伎というのがあり、明治時代に西洋人に評価されてしまったために、江戸時代の服装のまま古典芸能として固定化してしまったのですが、もとは江戸時代の庶民が憧れる服装をした役者が出る江戸の現代劇だったのです。歌舞伎の古典芸能化に飽き足らないようなエネルギーは、現代日本にもあると思えるので、そのような現代劇の劇団もあるに違いないと思ったのです。つまり宝塚の少年歌劇版です。でもそのようなものは、ありませんでした。
やはり明治の国家はそのようなものは認めなかったのだと今なら理解できます。
近代日本が捨ててしまった大事なものの一つではないかと、今でも思うのですが、日本は本当に残念な道を歩んでしまったものですね。
たとえば三輪明宏のような人になるには、稀な才能がなければなれませんし、ニューハーフのような仕事には、あたしは向いていないと思いました。
そこで漠然と思っていたことは、日本には歌舞伎というのがあり、明治時代に西洋人に評価されてしまったために、江戸時代の服装のまま古典芸能として固定化してしまったのですが、もとは江戸時代の庶民が憧れる服装をした役者が出る江戸の現代劇だったのです。歌舞伎の古典芸能化に飽き足らないようなエネルギーは、現代日本にもあると思えるので、そのような現代劇の劇団もあるに違いないと思ったのです。つまり宝塚の少年歌劇版です。でもそのようなものは、ありませんでした。
やはり明治の国家はそのようなものは認めなかったのだと今なら理解できます。
近代日本が捨ててしまった大事なものの一つではないかと、今でも思うのですが、日本は本当に残念な道を歩んでしまったものですね。
ブログ管理人のプロフィールを書いてなかったので、ある50の質問から。鳩子に50の質問
Q1.名前は? A.鳩子
Q2.生年月日 A.月の静かな夜でした
Q3.身長/体重/座高 A.170/??/??
Q4.血液型/星座 A.えー…とを……?
Q5.職業 A.女優になりたかったけど
Q6.使っている携帯は? A.?
Q7.乗ってる車 A.自転車
Q8.趣味 A.写真と詩でしょうか
Q9.どんな性格? A.優柔不断
Q10.芸能人に例えると? A.天然ぼけ系
擬娩とジェンダー
2007/01/09
トランスジェンダー史
擬娩(ぎべん)とは、妻の出産のときに、夫が出産の真似のようなことをしたり断食などもしたという、南アメリカ大陸など世界各地に存在した古い風習のことです。
夫による妻の行為の真似とするなら、広義のジェンダーのトランスともとれなくもありませんが、なぜそんなことをしたのか、学者の説によると……、
赤ん坊や母親に危害を加えようとする悪霊の目をそらすため、というのがよく言われているようです。
けれど……『双六で東海道』(丸谷才一)という本によると……、19世紀の学者は、母系社会から父系社会の移行期に父親が自分の子であることを主張するためにそのようにしたと考えた。こちらの説明のほうがわかりやすいというお話。産みの苦しみなどを夫が疑似体験することで、妻との一体感を得て、子の親であることを確信したということでしょうか。
南米では少女の初潮のときハンモックにくるまって断食した、このハンモックというのは夫が擬娩のときにもくるまったものであることから、丸谷さんは、これは生まれ変わりのことで、父親の擬娩というのも母親の真似ではなく胎児の真似なのではないかと言うわけです。少女は成人になる試練のために断食したが、赤ん坊にそうさせるわけには行かないので父親が代わりにした、調べたらレヴィ・ストロースという学者も同じようなことを言っている、というお話。
南米では、擬娩のときには、近所の人がお見舞いに来るのは擬娩状態の父親に対してであって、母親は隠れてこっそり出産したそうです。こんなところから「悪霊の目をそらす」と解釈されるのでしょう。母親は、出産後すぐ働き、産後しばらくは、赤ん坊と父親の両方のめんどうをみたそうです。だから父親は赤ん坊の真似をしているといえなくもないわけです。母親が赤ん坊と同じようにめんどうをみたとき、父親の断食の終わりに母乳を与えたとは書いてありませんでしたが、父と子が何か同等の「兄弟」のような存在になってしまうのが、この説のちょっとしっくり来ないところです。
父親がトランスするという説も捨てがたいわけです。
母系社会から父系社会への移行期に多くの父親が擬娩のようなことをしたとすれば、母系社会にさかのぼれば部族のリーダー格の父親たちだけがそうしたということも想像できます。
日本の神話で南米のハンモックのようなものといえば、真床追衾(まとこおふすま)というのがあります。空からニニギノミコトという人が降りてくるときにくるまっていた寝床のことです。ニニギノミコトが天孫として降臨したときは赤ん坊だったという説もあるのですが、南米の少女のような意味があったとしたほうが、すっきりするかもしれません。
天孫降臨は長旅であり、長旅に際して貴い少年がトランス(女装)したことは、ヤマトタケルなどの例もあるわけです。ま、トランス自体が一種の「生まれ変わり」ではあるわけですけれど。
夫による妻の行為の真似とするなら、広義のジェンダーのトランスともとれなくもありませんが、なぜそんなことをしたのか、学者の説によると……、
赤ん坊や母親に危害を加えようとする悪霊の目をそらすため、というのがよく言われているようです。
けれど……『双六で東海道』(丸谷才一)という本によると……、19世紀の学者は、母系社会から父系社会の移行期に父親が自分の子であることを主張するためにそのようにしたと考えた。こちらの説明のほうがわかりやすいというお話。産みの苦しみなどを夫が疑似体験することで、妻との一体感を得て、子の親であることを確信したということでしょうか。
南米では少女の初潮のときハンモックにくるまって断食した、このハンモックというのは夫が擬娩のときにもくるまったものであることから、丸谷さんは、これは生まれ変わりのことで、父親の擬娩というのも母親の真似ではなく胎児の真似なのではないかと言うわけです。少女は成人になる試練のために断食したが、赤ん坊にそうさせるわけには行かないので父親が代わりにした、調べたらレヴィ・ストロースという学者も同じようなことを言っている、というお話。
南米では、擬娩のときには、近所の人がお見舞いに来るのは擬娩状態の父親に対してであって、母親は隠れてこっそり出産したそうです。こんなところから「悪霊の目をそらす」と解釈されるのでしょう。母親は、出産後すぐ働き、産後しばらくは、赤ん坊と父親の両方のめんどうをみたそうです。だから父親は赤ん坊の真似をしているといえなくもないわけです。母親が赤ん坊と同じようにめんどうをみたとき、父親の断食の終わりに母乳を与えたとは書いてありませんでしたが、父と子が何か同等の「兄弟」のような存在になってしまうのが、この説のちょっとしっくり来ないところです。
父親がトランスするという説も捨てがたいわけです。
母系社会から父系社会への移行期に多くの父親が擬娩のようなことをしたとすれば、母系社会にさかのぼれば部族のリーダー格の父親たちだけがそうしたということも想像できます。
日本の神話で南米のハンモックのようなものといえば、真床追衾(まとこおふすま)というのがあります。空からニニギノミコトという人が降りてくるときにくるまっていた寝床のことです。ニニギノミコトが天孫として降臨したときは赤ん坊だったという説もあるのですが、南米の少女のような意味があったとしたほうが、すっきりするかもしれません。
天孫降臨は長旅であり、長旅に際して貴い少年がトランス(女装)したことは、ヤマトタケルなどの例もあるわけです。ま、トランス自体が一種の「生まれ変わり」ではあるわけですけれど。
男女は老いて中性化する
2007/01/05
ジェンダー
年末年始はついテレビをよく見てしまいますが、年末のトーク番組で松任谷由実女史が言うには、
> 女性はほうっておくとどんどん低い声になる、男性は高い声になる、ホルモンの関係らしい
というお話……。声だけでなく年齢とともに容姿も感受性もだんだん中性的になってゆくのかもしれませんね。人は生まれたとき中性的だったとしたら、老いもまた中性的なものに戻って行くことなのかもしれません。そういう年齢を迎えるための心の準備も必要になってくることでしょう。
さてお正月の懐メロ番組では、女性歌手は、ほとんどのの人が声が低くなっていました。男性歌手はちょっとわかりません。男性歌手は若い時代に中性的な魅力というか無理に高い声を出してた人も多かったかもしれませんので。
ミニスカートで一世を風靡したある女性歌手は、今も美脚でしたが、プロポーションはやや胸板が厚めになってしまったというか、これも一種の中性化と考えればやむをえないことなのかもしれません。でも男性のプロポーションは、女性化ではなく幼児化してゆく感じです。
ある人が言うには「女性はおじいさん化する、男性はおばあさん化する」ということらしいです。
両性的だった人も、中性化することでしょうね。
> 女性はほうっておくとどんどん低い声になる、男性は高い声になる、ホルモンの関係らしい
というお話……。声だけでなく年齢とともに容姿も感受性もだんだん中性的になってゆくのかもしれませんね。人は生まれたとき中性的だったとしたら、老いもまた中性的なものに戻って行くことなのかもしれません。そういう年齢を迎えるための心の準備も必要になってくることでしょう。
さてお正月の懐メロ番組では、女性歌手は、ほとんどのの人が声が低くなっていました。男性歌手はちょっとわかりません。男性歌手は若い時代に中性的な魅力というか無理に高い声を出してた人も多かったかもしれませんので。
ミニスカートで一世を風靡したある女性歌手は、今も美脚でしたが、プロポーションはやや胸板が厚めになってしまったというか、これも一種の中性化と考えればやむをえないことなのかもしれません。でも男性のプロポーションは、女性化ではなく幼児化してゆく感じです。
ある人が言うには「女性はおじいさん化する、男性はおばあさん化する」ということらしいです。
両性的だった人も、中性化することでしょうね。
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