Archives: 200604
gw08.jpgしあわせ恐怖症についてはホームページの2004/9/23にも書いたことがあります。

女性には「しあわせ恐怖症」というのがあり、たとえば白雪姫の物語で継母(実母の話もあります)が娘に嫉妬するように、母親というのは自分以上の幸福を娘に望まないものなので、娘も遠慮して第4、第5希望程度の男性と結婚するケースが多くなるような話。(継母でも実母でも根本は同じで、おとぎ話では実母とすると救いがないようなことになるので継母の話になっていくらしいです)
あんまりしあわせになりすぎても肉親や身近な人たちに嫉妬されますから、そんなことで悩むよりは、半分くらいのしあわせで十分だと無意識に考えてしまう女性が多いそうです。それと似たような理由で、性転換までは望まないというトランスさんも多いのかもしれません。

人生に前向きで積極的なことが無条件に正しいとされることが多くなった現代ですが、ちょっと前までは必ずしもそうではなかったようなのです。
諦めや悟りのようなものが本当に消極的な人生なのかどうか、もう一度考え直してみる必要があるように思います
先週NHK衛星放送でやっていた「男はつらいよ」シリーズの番組の最後に、映画監督の山本晋也さんともう一人の作家のおじさんとで、映画のシーンを振り返ってのトークのコーナーがありました。
その中で、女優の岡田嘉子が「後悔のない人生なんてないんじゃないかしら」と言うシーンのことを話題にしていました。若き日に共産党員の男性とロシアに駆け落ち亡命をした美人女優という私生活のイメージがだぶってきて云々の話はともかく、
「後悔のない人生なんてない」
という言葉は、ちょっと気持ちが楽になるような気もしました。
若いころは人生に前向きであるべきでしょう。同じ後悔をするなら、一度きりの人生、何もしないよりも、思い切ってやってみて後悔したい……、そうして性再適合手術(SRS、性転換手術)を受けようとする人。もちろん「何もしないで」後悔する人もいます。
どちらも同じように人間らしい姿なのでしょう。「アタシがニューハーフにならなかったワケ」なんていうタイトルの記事を、そのうち書いてみたいと思っています。
ある本を読んでたら、思春期の若者は、異性に対する憧れと恐怖感を同居させている、というような一行がありました。どの年代の人でも多かれ少なかれそうなのでしょうが、思春期には特に顕著に現れるということなのでしょう。
女系家族で育った女性たちも、男性に対する漠然とした憧れを抱いていることが多いでしょう。彼女たちの好みはソフトで優しい男性です。彼女たちの男性への恐怖感は、世間への恐怖そのものとも重なっています。
こうした家族の強い影響のもとに育った男の子は、女性たちと同じような発想をしがちですが、鳩子の場合は、男性への憧れはあまり感じていませんでした。憧れを感じたのは、小学校の男性教師の知識くらいです。ほかには作家や芸術家などの遠い存在に対してでした。気持ちをもっと女性化すれば男性への憧れを感じることができるようにも思います。
男装生活のときに、これはちょっと女性たちの意見を取り入れすぎたかなと思うときがあり、それが失敗に終わったとしても、教訓化することができずに、同じことを繰り返してしまいます。
ローカル駅にて
ローカル駅にて
 三橋順子さんの「鉄道趣味と女装者」というエッセイがあります。鉄道趣味とは、時刻表片手にローカル線を乗りつくしたり、模型趣味に興じたり、ほとんど男性の趣味なのですが、なぜか「女装者」にそれが多いというお話でした。軍事マニアやバイクの好きな人もトランスジェンダーに多いと書かれています。

 私はたくさんの人のことは知らないのですが、ほかに船の模型の好きな人、軍用艦が好きな人も知っています。
 私自身もむかし鉄道模型の趣味があったのですが、私の場合、線路や駅舎だけでなく、トンネルや鉄橋や、丘の上に家を配置したりして、情景模型を楽しんでいました。駅のホームには小さな人形が電車を待っています。家の模型は、もう少し大きいものだったら、室内のインテリアまで工夫して人形を住まわせたいところでした。そこまで行くとドールハウスなどの女性の趣味に近づくのかもしれませんけれど。

 船なら軍用艦、スクーターではなくバイク、というのは、流線型のボディではダメということなのかもしれません。だとすると鉄道もやはり蒸気機関車がいちばんなのかも。いかにも金属的で、機械の仕組みそのものがむきだしになっているようなディティールです。20世紀初頭にそういった造形を美術作品として取り上げた未来派と呼ばれる潮流がありました。
 未来派については、稲垣足穂のエッセイなどで漠然と知っていただけなのですが、最近いろんな解説ページを読むと、少し違和感を感じる部分があります。それは一つは男性主義のような考え方であり、もう一つはファシズム礼讃の政治傾向に走ったことです。男性主義とは、もしかすると同性愛のことになるのかもしれませんが、よくわかりません。ファシズムというのも英雄待望論なのかもしれませんが理解できません。
 そんなわけで、謎の探索は行き詰まったというわけです。
 模型趣味の場合は、ある種のフェティシズムが基底にあるのでしょうが、それ以上のことは、よくわからないのです。(2005/5/30)

参考
まりっぺのつぶやき〜「鉄道オタクとアスペルガー症候群」「自閉症スペクトラムと性のゆらぎ
(追加) とても難しい問題なのですが、上記のページに、「知的障害を伴わない自閉症の一種」のアスペルガー症候群の特徴と、鉄道オタクと呼ばれる人々の傾向が類似しているという指摘があります。特定のものへのこだわりが強く、暗記が得意だが、他人の意見はあまり聞かない、IQは高いが読解力に難……など。
鳩子は暗記が苦手で、いろんな人の意見を聞きすぎて迷ってばかりですから、その点は違うのですが……。
もう一つのページは、自閉症とTG(特にFTM)の特徴が類似するという指摘です。社会への適応に難があるということ以上の共通現象があるようです。
4d.jpg「鳩子ロマンス」との区別のことですが、やっと気づきました。ブログのカテゴリー分類のようなことではなくて、ひとことでいえば「セルフカウンセリング」。でもそれは既成のマニュアルなどがあるわけではありません。そしてそれは心理学方面に限ったことではなく、むしろそういうものは部分的に参考にするだけにすぎません。

それは心理よりは思惟に近いもの、人生観や世界観の問題であって、文学や芸術や美学の領域に関わってくるものです。そしてもしそれが現代において失われた自己を探す旅であるなら、古典や伝統文化からも学ぶものは多いことでしょう。

それは鳩子自身のセルフカウンセリングの記録ではあるのですが、同じような境遇にある人たちや、さまざまの文化の側面にも思惟をめぐらす人にとっても、少しでも興味をもってもらえるようなものでありたいですし、少しでもそういう理解をいただければ、このセルフカウンセリングはささやかな実をむすぶことができるだろうということです。

最近、まりっぺさんや伊藤聡さんのページをみて気づいたわけなのです。
トランスする人のなかには、自分は恵まれたからだだと思っている人と、そうじゃない人と、いるみたいです。
むかしの神田のエリザベスあたりへ出入りしてたりすると、あたしは自分は恵まれているなと思いました。もし最初にニューハーフの店に出入りしたりして、そこの子と親しくなってたりすると、自分はそんなに恵まれてないと思ったのかもしれません。
最近はネットで憧れの人のサイトばかり見ている人も多いのでしょう。本当に良い写真ばかり選りすぐって載せてありますし、そういう人たちの画像ばかり見ていると、自分はまだまだだと思う人も増えるのかもしれません。

個人の資質にもよるのでしょう。なにごとにも几帳面でかんぺきを求めようとすると、細かい部分まで気になってしかたなくなります。どちらかというと理系の人にそういう人が多いような……?、そこへいくと文系の人のほうがチャランポランのところがあっていいのかもしれません。デートの準備もあまり時間をかけなかったりして……。でもほどほどというか、「適当で良い加減」という漢字の意味の通りがいちばんいいんだろうと思います。

相手側の問題もあると思います。細かいことを言わずに暖かいまなざしで見てくれる人なら、それだけで相手をしあわせにしてあげられることでしょう。老眼にさしかかったくらいの人なら、相手をそのように見ることができるのかも?

さて、GID関係の用語で「性別違和感」というのがあります。要するに、心の性が、その反対の性別でしかない肉体に違和感をおぼえるということらしいです。自分のからだが嫌いだということになれば、それはとても不幸な心理状態ですから、どこかで自分は恵まれていると思えたほうが、不幸は小さくなるのでしょう。
去年の6月に長曾我部元親のことを書いたときは、伊藤聡さんのページを見てのことでした。

その伊藤さんによると、GIDだと思っていた人がそうではなくて自閉症の症状ではないかというような実例の話がある、ということが、まりっぺさんのページにありました。
つまり、その二つはよく似た特徴があり、GIDのほうが社会的にも注目されているので、そちらではないかと思い込みやすいということなのでしょう。特に自閉症の女性の場合には、脳梁も男性に近い大きさで、ふるまいも男性的になるらしく(まりっぺさんによる)、そんなことからFTMのGIDではないかとされてしまうことがあるそうです。

男性として社会に適応するのがつらいことがある、ということは、やはり男性としては自閉症的なのだと思いますが、かといって女性として適応できるかといえば、現実はさらに難しいことです。

いびつな社会にニヒリズムやペシミズムの感情をもつ人は多いと思います。現代では特にそうでしょう。しかし、かといって「適応」ばかりを最優先させても、本来の人間的な生活を送ることはできません。

現実を離れ、美しい芸術を愛すること。社会的な性別を離れ、美しいと感じた性としてさまようこと。

日本人が憧れてきた生活に、仙人のような、あるいはご隠居さん、若隠居、あくせく働かない風流人のような生活があります。知をそなえ、美を追い求めるような清貧の生活への憧れや美学があります。

「死」というのが避けられないものだとすると、それは究極の自閉のことではないでしょうか。

あるいは数枚の原稿用紙のレポートの提出のとき、意識を集中させるために深夜にひっそりと机に向かって書く、ということはいわば臨時の自閉的な空間を作るということです。こういうのは誰でも体験することであって、そういう意味では、自閉的な生活場面の上手な使い分けというのも、生活の智恵として必要なこともあるのでしょう。