野原一面に咲くれんげ草と、れんげ草で作った花輪や鞠で遊ぶ子の画像です。邊見泰子著『草花遊び全科』(朝日新聞社1976年)より拝借しました。
右下の小さい枠の絵はすみれの鞠。
小さいころ女の子どうしで、または少し男の子がまじって遊びました。
こういう景色を見ることは今はほんとうに少なくなったかもしれません。
花の一輪だけで強烈に存在をアピールするかのような花よりも、野原一面に咲いた花の全体が一つに生きているような花たち……というのも素敵です。
この本が出たころは、子どもの流行もロングスカートだったようですね……
年齢とともに腕の太さを気にしてたら、ある人に、にのうでがイイとか、肩の上から10センチくらい下のところが写真のようにぷくっとたるんでる感じがイイとか言われ、そういうものかなと思いました。聞くところによると、最近は二の腕フェチの殿方も増大中とか。こういうことに関してなら、若い子には真似できないというか、年輪を重ねてきた甲斐があるというものです。
手フェチ Part2
2005/05/26
思い出
手フェチpart1 につづく第2弾です。手フェチのことを最初に書いたのは去年の8月19日の画像掲示板でした。
「HPでも使ってる写真ですけど……
何を隠そう、かつての鳩子のチャームポイントは
手 だったんですね(#^.^#)
最近はだんだん日焼けがもどらなくなってしまったところもありますが、「手フェチ」の掲示板を開いても面白いかも。
手自慢の人のレスがあると、うれしいですね ^o^ 」(8/19)
というわけで翌日、にゃん丸さんからメールがありました。
私が高校生のとき体力測定でハンドボール投げというのがありました。ほとんどの男の子たちは大きなハンドボールを手で掴んで投げるから遠くに飛ぶわけです。鳩子も男の子にまじって投げてみましたが、大きなボールを手のひらに乗せるのがやっとで、ぜんぜん飛びませんでした。そういう子が何人かいました。
元野球選手の江川投手は、指が短かかったのでフォークボールは投げられなかったそうです。フォールボールは人差し指と中指にボールを挟んで2本の指で投げるらしいんですけど、短いと挟めないわけ。男性の長い指もいいですよね〜。
coccoちゃんの"オンナはみんは手フェチ"、オンナはオトコの手を見るってそうですよね。
女性どうしでも相手の手を見ますから、トランス女性は気をつかってしまいます。
ホームページとHatopia計画2
2005/05/25
トランスジェンダー・性同一性障害
鳩子はメカはまったくダメというわけじゃないけど、得意じゃないみたいです。デジカメはオートモード専門だし、でもパソコンは少し慣れました。ハードのことはよくわからないのですが、ホームページを始めるようになって、HTMLのことがだんだんわかるようになりました。
<center> とやると
たったそれだけの知識でできるの?とお思いでしょうが、できちゃうんですね、これが。本当は最初ちょっと心配でしたけどね。でも普段はおしとやかでも、いざとなったら開き直って当たって砕けろ!なんていうのが私なのかも。でも今はもっとたくさんおぼえて、スタイルシートも使います。
「HTML文法」っていうくらいですから、文法なんでしょう。理系のあたまでないほうが、すなおに取り組めるのかも。
ホームページを始めるからといって良いパソコンに買い替えるというのも違うみたいです。自分だけストレスの少ない高級機を使っていては、見る人のストレスがわからなくなりますから。
ホームページの内容は、特殊な趣味のページではないと思っています。私自身の趣味も普通の範囲です。トランスジェンダーなどの問題についても、社会に自然に溶け込むことが理想ですから、ホームページを登録して紹介してくれる所のカテゴリ分類は、「性」だとか「ジェンダー」だとかにことさら限定する必要はないわけです。トランスジェンダーとして「歴史」や「文学」などについての私の趣味のホームページやブログを作りたいだけなのです。つまり、「Hatopia計画その2」ですよね。 ^^*
最近の男の子は、トイレでおしっこをするのにしゃがんでする子が多くなっているというニュースが、しばらく前にありました。外にこぼれてしまったものを、お母さんがお掃除するのは面倒だといって、しゃがんでするようにしつけているというケースが多いのだそうです。鳩子も大人になるにしたがって、どういう服装のときもしゃがんでということが多くなりました。
また、戸籍の性と異なる表示のあるトイレに入ることは、法律では云々という話もあるのですが、庶民生活の長い歴史では、性別は服装や髪型で認識してきたこともあり、トイレでは異性の服装の人が入ってくることのほうが大きな違和感が生じます。トイレで他人どうし顔を見合わすことは女性どうしではあまりないでしょうけど、なぜか男性どうしではあるようです。ちょっと羞恥心が違うのでしょう。まんいち質問を受けたらGIDですと言えば今は通ると思います。GIDの語義にこだわる必要はありません。見た目の違和感が少なければですけれど。
見た目の違和感といえば……、自分の今の年齢ではとても女性に見えないので、もうそういう服装はやめて、綺麗に見える人をホームページなどで遠くから応援することによって、自分の気持ちを保とうとする人が、とても多いということです。そういう判断は、女性的な羞恥心の気持ちから生まれるものであって、気持ちが変らないのだろうと思います。
『鳥部山物語』という室町時代の稚児と僧の恋愛物語を読むと、稚児の美しさについては、やはり髪型や服装のことしか書いてありませんでした。ただし後ろ姿のことは書いてあります。道を歩きながら他人の顔をじろじろ見ることは、今の人もあまりしないと思いますが、後ろ姿はじろじろ見る、というのは室町時代も今もあまり変らないということなのでしょう。注意しないといけません。
上州の女装窃盗少年
2005/05/22
トランスジェンダー史
群馬県伊勢崎市で女装の16歳の少年が窃盗をはたらいたというニュースが、19日ごろ明らかになりました。
http://www.tokyo-np.co.jp/00/gnm/20050519/lcl_____gnm_____003.shtml
女装の窃盗といえば、江戸時代の歌舞伎に登場する弁天小僧がよく知られるところです。
泥棒はもちろん犯罪なのですが、こういう少年はなぜか人気がありました。当時は一揆や打ちこわしで、女装の美少年が実際に活躍するという例が多かったという話は、3月8日の「百姓一揆と女装の美少年」の記事に書きましたが、一種の義賊であったことが人気の理由の一つなのでしょう。この記事では明和元年(1764年)の上州での一揆についても触れてありますが、上州には他にも同様の事件の記録があるそうで、上州とはつまり群馬県地方のことです。
そういった「女装文化」の歴史を思い起こさせるような今回の事件でしたが、今回の二人組は義賊と呼べるものではなく、単なる窃盗事件のようですし、ときどきニュースになる盗撮事件のような陰湿さはありませんがやはり犯罪ですので、こういう事件を困ったものだと思います。
http://www.tokyo-np.co.jp/00/gnm/20050519/lcl_____gnm_____003.shtml
女装の窃盗といえば、江戸時代の歌舞伎に登場する弁天小僧がよく知られるところです。
泥棒はもちろん犯罪なのですが、こういう少年はなぜか人気がありました。当時は一揆や打ちこわしで、女装の美少年が実際に活躍するという例が多かったという話は、3月8日の「百姓一揆と女装の美少年」の記事に書きましたが、一種の義賊であったことが人気の理由の一つなのでしょう。この記事では明和元年(1764年)の上州での一揆についても触れてありますが、上州には他にも同様の事件の記録があるそうで、上州とはつまり群馬県地方のことです。
そういった「女装文化」の歴史を思い起こさせるような今回の事件でしたが、今回の二人組は義賊と呼べるものではなく、単なる窃盗事件のようですし、ときどきニュースになる盗撮事件のような陰湿さはありませんがやはり犯罪ですので、こういう事件を困ったものだと思います。
今は、おおざっぱに言うと、自分のことをアタシというのは女性が多く、男性はワタシが多いのでしょう。男性はボクとかオレともいいますけど。
男性でアタシという人もいます。特に落語家の人たち。中でもいちばん耳に残っているのが桂歌丸さんだったので、ネットを調べたら、インタビュー記事にちゃんと「アタシ」と書いてありました。
http://www.sasakure.com/yamoo/favorite/rakugo.html
林家木久蔵さんのもありました。
http://salus.jp/magazine/backnumber/0212/interview.html
芸能の人たちばかりでなく、下町の普通のおじいちゃんも、アタシと言ってた人が多いと思います。男だからどうだとかいうことではないのでしょう。ワタシという言い方は明治のころの学校から広まったものとは思いますが、地方や地域によっては、発音しづらい言葉だったのだろうと想像しています。
私は自分のことをなんて言うかというと、男性の前では間違いなくアタシです。でも同性(?)的な人の前ではワタシ、というか、これはエリザベス時代の慣習が残ってしまっているのでしょう。
男性でアタシという人もいます。特に落語家の人たち。中でもいちばん耳に残っているのが桂歌丸さんだったので、ネットを調べたら、インタビュー記事にちゃんと「アタシ」と書いてありました。
http://www.sasakure.com/yamoo/favorite/rakugo.html
林家木久蔵さんのもありました。
http://salus.jp/magazine/backnumber/0212/interview.html
芸能の人たちばかりでなく、下町の普通のおじいちゃんも、アタシと言ってた人が多いと思います。男だからどうだとかいうことではないのでしょう。ワタシという言い方は明治のころの学校から広まったものとは思いますが、地方や地域によっては、発音しづらい言葉だったのだろうと想像しています。
私は自分のことをなんて言うかというと、男性の前では間違いなくアタシです。でも同性(?)的な人の前ではワタシ、というか、これはエリザベス時代の慣習が残ってしまっているのでしょう。
紙でできた着せかえ人形というのがありました。表と裏を貼り合わせると平べったい人形ができます。衣類は肩のところに細い貼り付け部分があって、表と裏を合わせて、サンドイッチマンのように上からかぶせて着せました。サンドイッチマンの意味がわからないという人もいるかもしれませんけど。^^;;日本の浮世絵は、面で構成するのだともいいます。和服は、みんなたたむと平べったくなります。
現代の「飛び出す絵本」は、閉じたままだと平べったいのですが、本を開くと、ぐっと立体的に広がってきます。
平べったい着せかえ人形も、子どもたちの心の中では、そうやって無限の広がりを持っていたのでしょう。
画像は京都書院発行の『人形』から。
性差心理学というページ http://iwao-otsuka.com/fm/indexfm.htm を見たら、責任をとるのが男性、とらないのが女性、といった書き方がありました。
どんな意味でそう言うのか、よくわからなかったのですが、ページ全体を見た印象が、なんとなくアメリカの西部劇に出てくるような家族のイメージを思い浮かべさせるものだったので、あちらの研究の影響もあるのかと、英語の辞書を調べました。
英語では責任とは、外部の社会から課せられた責務のことをいうようです。毎日毎日、その日の責任を果たし、やすらかな夜を迎え、神に感謝をささげるイメージです。社会の背後には神があるのでしょう。
社会の責務とは、経済活動や税や賦役などのことをいうようです。確かに男性を中心に担ってきたという過去の事実を言っているのでしょう。
今の日本で「責任」といえば、責任感であるとか、道義的で個人の内面の心理ばかりに目が行ってしまいます。情緒的な民族なのでしょうか。
あるいは、責任の所在を明らかにしろとか、責任をとるとか、責任者であるとか、まるで立場の低い多くの人々には縁のないものであるかのようにもとらえられています。つまり、「下に対しての責任」なのです。「お客さまは神さまです」という言葉もあります。けれどそういう得体の知れない神さまはとても恐い面があると思います。上手に責任をごまかし通す人も目立ちますが、さっさと若隠居するのもいいかも。ちょっとこの二者択一は極端すぎますけど。
タイトルがおおげさすぎました。
どんな意味でそう言うのか、よくわからなかったのですが、ページ全体を見た印象が、なんとなくアメリカの西部劇に出てくるような家族のイメージを思い浮かべさせるものだったので、あちらの研究の影響もあるのかと、英語の辞書を調べました。
英語では責任とは、外部の社会から課せられた責務のことをいうようです。毎日毎日、その日の責任を果たし、やすらかな夜を迎え、神に感謝をささげるイメージです。社会の背後には神があるのでしょう。
社会の責務とは、経済活動や税や賦役などのことをいうようです。確かに男性を中心に担ってきたという過去の事実を言っているのでしょう。
今の日本で「責任」といえば、責任感であるとか、道義的で個人の内面の心理ばかりに目が行ってしまいます。情緒的な民族なのでしょうか。
あるいは、責任の所在を明らかにしろとか、責任をとるとか、責任者であるとか、まるで立場の低い多くの人々には縁のないものであるかのようにもとらえられています。つまり、「下に対しての責任」なのです。「お客さまは神さまです」という言葉もあります。けれどそういう得体の知れない神さまはとても恐い面があると思います。上手に責任をごまかし通す人も目立ちますが、さっさと若隠居するのもいいかも。ちょっとこの二者択一は極端すぎますけど。
タイトルがおおげさすぎました。
リボンの騎士のこと
2005/05/16
手塚治虫のアンドロギュノスたち
リボンの騎士。好きでした。
サファイヤは、普段は男の子の服装をさせられて、でも誰も来ない部屋の中では、女の子にもどって、女の子の服装ができるのでした。
事情があってやむをえず男の子のかっこうをしているけれど、本当は女の子である、という点では、鳩子と同じなのかも??
最後がハッピーエンドになるというところも良かったのです。
『乙女のロマンス手帖』という本は、昭和30年代ごろの少女雑誌に掲載された絵物語のさし絵や記事、漫画、付録などを紹介した本です。昭和40年代ごろまでの少女雑誌には、次から次へと不幸がおそいかかる話とか、そこから立ち上がる話、人さがしの話が多かったです。スリラーものもありました。
どこの町にも町はずれに絶対近づいてはいけないといわれていた廃屋があって、おばけが出るとか、人間ではないような人が住んでるとか、いろんなうわさがありました。
あのころの女の子はみんな髪にリボンをつけていたとか、可愛い記事も多いです。
少年雑誌の付録の定番は、やっぱり日光写真でしょうか。少女雑誌の定番は、編み物セットですよね。懐かしいですね……
本は、堀江あき子編、河出書房新社、1500円。
ウエストニッパーについて
2005/05/14
その他・生活と文化
女性なら誰でも細いからだでありたいもの、そこで私などは、コルセットやウエストニッパーやらの矯正下着にお世話になってきたわけです。古い言葉に「すがるの如き細腰」というのがありますが、スガルとは蜂のこと、細腰とは今でいう細いウエストのことで、蜂の丸いお尻やおなかのその上がきゅっと細くなっていることをたとえて言ったものとのことです。「すがるの如き細腰」とは、実は女性だけでなく、若い男性の容姿に対しても、ほめ言葉だったようです。
「風と共に去りぬ」という映画の中で、ヒロインのスカーレットがメイドにコルセットを締めてもらうシーンがあうのを憶えています。そのときの会話で「47センチ……」とか言ってたのが耳に残っているのです。もちろん日本語吹き替え版です。
私のばあい若いころは、ぎゅっと締めあげたら63センチくらいになってました。身長が170センチですから、かなり理想に近い数字だったらしいです。肋骨の一番下の骨の位置が63センチでアンダーバストが73センチくらい。アンダーバストより10センチくらいの差にしかならないと思います。へこんだお肉の部分はどこへ移動したかというと、おおむね下腹部でした。ちょっと胃下垂ぎみになります。
最近は少し太ってしまったので、あまり細くはならないのです。数字は差し控えますが……、ぐっと締めると、骨盤の上の左右にお肉がはみ出すような感じというか……、骨盤の横にパッドでも入れれば良いラインになりそうではあるのです。締め上げた反動が胸から上にも現れるみたいで、胸板も厚くなっているような感じです。やはりもう少しダイエットしないと期待する効果は出ないのでしょう。若いころと比べるとスリーサイズのうちBとHが増えた数字は同じくらいなのですが、Wはそれよりかなり増えてしまったのが最大の原因なのでしょう。
若いころのドレスをもう一度着てみたい……、やっぱりダイエットしかないのでしょうね……。
(写真は古いものです。「みどりの居酒屋日記」さんを読んで書きました)
私はそんなに方向音痴ではないと思っていたのです。それが最近どういうわけか同じところをぐるぐる歩き回ったり、いろいろですけど、地図もなしにカンだけで行き当たることもたまにあります。ずっと昔に歩いたころと風景が違ってしまったのも原因かもしれませんが、もともとカンに頼っていたのが、最近カンが鈍くなってしまったのかとも思います。
性差についての研究者によると、男性は空間認識に長けていて、方向音痴は少なく、突然聞こえた救急車のサイレンの音の方角もわかるとか書いてありました。
それに対して女性は時間認識に長け、とは書いてなかったですが、記念日などはよく憶えていますから、そういえるかもしれません。
野球選手のストライクとボールの見分け方はすごいものがあって、動体視力とかいうのでしょうか、一種の空間認識でしょう。原始時代の狩猟労働によってそうなったと研究者はいうのかもしれません。
男性は宴会などで、自分のすわる席に気をつかうらしいです。自分の立場をわきまえるのが社会人としてとうぜんということらしいですが、つまり序列意識です。昔の左大臣や右大臣にはじまって、空間に配置される関係といえるかも。
子は父に父の子であると認めてほしいと思います。認めてほしい、認めてあげる、というのが男性の人間関係の基本にあるのでしょう。そうやって序列ができて空間的に配置されていったのかも??

8日の日曜日は母の日でした。
実家の母のことでも書きましょうか、とも思ったけどプライベートは書かないことにしてました。
子どもがもう高校生・大学生なんていう知人の女性もいます。私にはそういう子どもがいないので、ときどきいろいろとお節介をしたくなるときがあるわけです。
養子が欲しいというGID女性も多いことでしょう。
私もあまり密着した関係ではない養女募集というのもいいかなと思います。
養女ですから年齢制限は設けさせていただきたいです。それから、若いころの洋服で、今はサイズの関係で着られなくなっているけれど、いくつか生地の良いものはしまってとっておいてあるので、それが着られる子。つまりサイズ制限ですよね。
ぜひ自分がという人がいたら、どうぞ遠慮なく名のり出てください。
美しき五月美しき五月よ
全ての蕾が、花開くその時
私の心にも
恋が花咲くのだ
美しき五月よ
小鳥たちが 歌い出すその時
私も乙女にうち明ける
私のあこがれと、願いとを
(訳詞・植村敏夫)
ハイネの詩ですけれど、この詩に曲をつけたシューマンの歌曲があるそうです。まだ聴いたことはないのですけれど。
ずっと以前、秋田のK子さんという人が、Queenという雑誌に寄せたメッセージの中に、「美しき五月」という言葉がありました。
私の知っていた「美しき五月」という音楽は、ヨハン・シュトラウスのワルツの曲で、フィルハーモニア・シュランメルンというカフェでの数人による演奏スタイルのものでしたので、K子さんからいただいたお手紙の返事に、そのことを書いた記憶があります。
美しき五月・・・なんとなく気持ちがはずんでくる季節です。
※「美しき五月」は最近は『美しい五月』と言うことが多いらしいので、検索にはご注意を。
http://www12.ocn.ne.jp/~ideale/ontheedge.htm
顔やからだを描かない物語
2005/05/08
古典文学
秋夜長物語で梅若が最初の夜を迎えたとき、着衣やしぐさのほかに、髪や黛(まゆずみ)についての描写がありました。日本の古い物語では、顔かたちや肉体の描写はあまりしないのが普通ですが、この物語はそれだけで充分まめかしい表現になっています。こういう物語は子どもむけのものではありません。もしかすると、現代のそのての小説と同じように、読む人を興奮させたのかもしれません。
現代では、普段は着衣の下に隠れている肉体の部分についての細かい描写をする小説があります。通常は見ることのないからだの部分ということです。昔は他人の顔もあまりじろじろ見なかったわけですから、その描写をすることもないわけで、あえて描写するには特別の意図があってのことということになります。といっても黛ていどのことですけれど。
身につけているものや髪型くらいしか他人を見ないので、その範囲で相手の性別を判断することになります。まあ100%そうでないにしても、古い時代はそういった要素が多かったので、トランスするのも容易であったと想像できます。現代は性差のアピールを誇張することに慣れていますから、トランスする人もハンディが大きくなるのでしょう。
仏像は、本来は人目に触れさせないものですから、姿かたちをかなり精密に作ったものもあります。仏像の目的はなんとなくわかるような気もします。古い肖像画の中にも精密なものがありますが、何のためのものなのでしょう。単に大陸文化の影響なのか、よくわかりません。
現代では、普段は着衣の下に隠れている肉体の部分についての細かい描写をする小説があります。通常は見ることのないからだの部分ということです。昔は他人の顔もあまりじろじろ見なかったわけですから、その描写をすることもないわけで、あえて描写するには特別の意図があってのことということになります。といっても黛ていどのことですけれど。
身につけているものや髪型くらいしか他人を見ないので、その範囲で相手の性別を判断することになります。まあ100%そうでないにしても、古い時代はそういった要素が多かったので、トランスするのも容易であったと想像できます。現代は性差のアピールを誇張することに慣れていますから、トランスする人もハンディが大きくなるのでしょう。
仏像は、本来は人目に触れさせないものですから、姿かたちをかなり精密に作ったものもあります。仏像の目的はなんとなくわかるような気もします。古い肖像画の中にも精密なものがありますが、何のためのものなのでしょう。単に大陸文化の影響なのか、よくわかりません。
男女の違い、父と子と母のテーマ
2005/05/02
ジェンダー
著名な芸術家に女性は少ないといいますが、紫式部をはじめとする平安時代の日本の文学に関しては、「例外」という表現を使うべきなのかどうか、よくわかりません。
けれど、浦島太郎などの昔話を語りついできたのも、アイヌのユーカラを伝えてきたのも、だいたい女性たちです。なぜ女性たちがそのような役割をになったかというと、ユーカラに古い神々が登場する物語が多いことがヒントになると思います。昔話や伝承文学といったものの古い形は、神謡であり、神々が自ら語ったことを特別な女性が聞き取って言葉に発したものだといわれるのですが、そのような古い神や自然の中から言葉を引き出す能力が、女性により多くそなわっていたということなのでしょうが、この話の先はとても難しくなりそうです。ただ、女性だけでなく、女装の人もそれができたという歴史の例が多いことを付け加えておきます。
男女は人間的には平等なのですが、性による違いや特質の差があります。性的なアピールも違いますけれど、表面に現われた違いを、生理的肉体的な違いによる説明だけでは貧しい気がします。
女と男のいちばん大きな違いは、母と父との違いのことかもしれません。
母から見た子は、自らおなかをいためて生んだ子であって、そのように子に愛情を注ぎます。しかし父から見た子は、確実に自分の子であることを証明する方法はなかったのです。女性の不貞とかいうことではなく、父と子の関係は媒介的でもあり、規範上の関係にすぎないようなところがあります。そうやって男は規則や法律を作ったり論理を重視するようになったのかもしれません。
実の父を疑うというテーマの小説や物語は少なくないと思いますが、日本史上さいしょに父を疑ったのはヤマトタケルという人かもしれませんね。
むかし石堂丸という少年が父を訪ねて高野山に入って僧の弟子になった話がありますが、その僧は実の父で、戒律のために父であるとは名のらずに生涯師弟関係をつらぬいたそうですが、母と娘ではそういうことはできないかもしれません。
けれど、浦島太郎などの昔話を語りついできたのも、アイヌのユーカラを伝えてきたのも、だいたい女性たちです。なぜ女性たちがそのような役割をになったかというと、ユーカラに古い神々が登場する物語が多いことがヒントになると思います。昔話や伝承文学といったものの古い形は、神謡であり、神々が自ら語ったことを特別な女性が聞き取って言葉に発したものだといわれるのですが、そのような古い神や自然の中から言葉を引き出す能力が、女性により多くそなわっていたということなのでしょうが、この話の先はとても難しくなりそうです。ただ、女性だけでなく、女装の人もそれができたという歴史の例が多いことを付け加えておきます。
男女は人間的には平等なのですが、性による違いや特質の差があります。性的なアピールも違いますけれど、表面に現われた違いを、生理的肉体的な違いによる説明だけでは貧しい気がします。
女と男のいちばん大きな違いは、母と父との違いのことかもしれません。
母から見た子は、自らおなかをいためて生んだ子であって、そのように子に愛情を注ぎます。しかし父から見た子は、確実に自分の子であることを証明する方法はなかったのです。女性の不貞とかいうことではなく、父と子の関係は媒介的でもあり、規範上の関係にすぎないようなところがあります。そうやって男は規則や法律を作ったり論理を重視するようになったのかもしれません。
実の父を疑うというテーマの小説や物語は少なくないと思いますが、日本史上さいしょに父を疑ったのはヤマトタケルという人かもしれませんね。
むかし石堂丸という少年が父を訪ねて高野山に入って僧の弟子になった話がありますが、その僧は実の父で、戒律のために父であるとは名のらずに生涯師弟関係をつらぬいたそうですが、母と娘ではそういうことはできないかもしれません。
Healthy Beautyのアンケート調査
2005/05/01
トランスジェンダー・性同一性障害
「女装のトータル支援サイト【Healthy Beauty】」http://pearl.hjp.jp/
というところでクリック式のアンケートの結果を見ました。
・写真を投稿したことがある 21%
・投稿しない理由 顔がばれたらこまる 65%
21%しかいないということは、まだまだ需要はあるということでしょう。
「顔がばれたら」というのは、そんなに心配しなくても大丈夫なものなのですが、大丈夫という納得のゆく説明は聞いたことがないということなのでしょう。それより後ろ姿でばれるという話もありますが・・・?
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