現代のさまざまな性の問題について、約50のキーワードをめぐっての小論文集であり、性についての言葉の語源や意味・使われ方の時代的な変化の様子を解説する「辞典」でもあります。たとえば「女装」という言葉については、「それは当然男性の行為で特殊なセクシャリティによるもの」といった今の使い方は、1970年代に広まった新しい用法であるとか、「ゲイ」は、終戦後の日本で生まれた和製英語で、のちにアメリカへ渡って逆輸入されたものである可能性があるというお話。また「ニューハーフ」については、その言葉をめぐる何人かの人たちのドラマも紹介され、そういった時代を本を読みながらわたしたちも体験できるかのような、面白い本でした。
以上の女装、ゲイ、ニューハーフの項目については、三橋順子さんの執筆によるものです。膨大な資料にもとづいた具体的で明快な語り口が、小気味良く感じられました。』(井上章一&関西性欲研究会編、講談社現代新書)
そろそろ始動しなくちゃ
2005/01/17
未分類
1月も半分が過ぎ、ホームページもそろそろ本格的な始動をしなければいけません。本を読んだり、他の人のHPを見たりも必要です。
2、3日前から少し他の人のページも見るようになりました。なんとなくこちらの書き込みを意識したような書き込みがあったりしましたが、中には日付を見るとこちらのほうが新しいのでその逆?というか、でもわたしにはあまり見る余裕はありませんでした。「日誌とコラム」のある1行の記述を除いては他の書き込みを意識したということはありません。年の初めですから、トランスに関連して自分の立場を確認するような内容の文章を、多くの人が書いているということなのでしょう。
HPの古い日誌で再読に値する見出しを拾い出して見たら、一年前の2004年1月の日誌では「手紙供養」「女装という言葉が嫌い?」という記事がありました。この「女装という言葉・・・」が、トランスについての自分の立場を綴ったものですから、今年もやはり同じようなテーマで書いているわけです。量は今年のほうがかなり多いですけれど。
「手紙供養」については先月のブログでうっかり中身まで重複するようなことを書いてしまいました。「季節が何十回か繰り返して、そして……」なんて最近どこかに書きましたが、本当に繰り返しています。
前回「手段としての性」の冒頭の引用は、たまたま検索に出たブログ形式のページからの記憶によるものですが、どなたの書いたものかはわかりません。その人の知人の言葉として簡単に紹介されていました。12月24日の「ひょうたん島」については、AMさんのページで書かれていたので、自分も少し書いてみました。
2、3日前から少し他の人のページも見るようになりました。なんとなくこちらの書き込みを意識したような書き込みがあったりしましたが、中には日付を見るとこちらのほうが新しいのでその逆?というか、でもわたしにはあまり見る余裕はありませんでした。「日誌とコラム」のある1行の記述を除いては他の書き込みを意識したということはありません。年の初めですから、トランスに関連して自分の立場を確認するような内容の文章を、多くの人が書いているということなのでしょう。
HPの古い日誌で再読に値する見出しを拾い出して見たら、一年前の2004年1月の日誌では「手紙供養」「女装という言葉が嫌い?」という記事がありました。この「女装という言葉・・・」が、トランスについての自分の立場を綴ったものですから、今年もやはり同じようなテーマで書いているわけです。量は今年のほうがかなり多いですけれど。
「手紙供養」については先月のブログでうっかり中身まで重複するようなことを書いてしまいました。「季節が何十回か繰り返して、そして……」なんて最近どこかに書きましたが、本当に繰り返しています。
前回「手段としての性」の冒頭の引用は、たまたま検索に出たブログ形式のページからの記憶によるものですが、どなたの書いたものかはわかりません。その人の知人の言葉として簡単に紹介されていました。12月24日の「ひょうたん島」については、AMさんのページで書かれていたので、自分も少し書いてみました。
トランスジェンダー哀歌2
2005/01/13
トランスジェンダー・性同一性障害
手段としての性何日か前にどこかで、「女性になることよりも、女性として何ができるかが大事」と書かれたページを見ました。つまり女性になることは目的ではなくて手段だということなのでしょう。
男女のあいだでもSexは目的ではなく手段であることに異論はないと思います。愛にとっての手段です。そう考えてくると、性行為だけでなく、性に関することはすべて手段だということになります。それがなくては成り立たないような重要な手段ではありますけど。
性の目的は子孫を残すこと、というより、恋人や配偶者だけでなく、子どもにも愛情をかけるのが目的なのでしょう。子どもができなくても別のものに愛情をかけることができます。ペットでも良いのでしょうが、濃密な関係は子離れまでで終わりにしなければなりません。たとえ何かはっきりしないようなものであっても、メッセージが伝わって、小さな反応があれば、喜びは何十倍にもなるのかもしれません。
女性になるのが目的なら、その人は女性ではないことになります。「当面のあいだは第一義的に考えて……」というのも、けっきょくその状態が固定してしまうことは政治の世界などではよくある話です。
目的というのは、手段によって毎日確認しなければ本当に壊れてしまうような繊細なものなのですが、何か将来あるべき立派な想像図が提示されたりすると、その目的のためには何をやっても許されるかのような心の荒廃が始まってしまいます。
"オブジェクト志向"とトランスジェンダー
2005/01/09
トランスジェンダー・性同一性障害
パソコンでアプリケーションソフトを起動してからファイルオープンの操作をしてファイルを開いて編集するというのでなくて、エクスプローラやファイラーからファイル名をクリックしてファイルに対応したソフトを起動する(同時にファイルもオープン)という方法が、慣れてくると便利になります。ファイルに合わせてふさわしいソフトが自動で起動します。世の中には、相手が男性なら女性として接し、相手が女性なら男性としてふるまう、という人もいるのかもしれません。そこまで極端でなくても、子どもやお年寄りや相手によって話し方が違ってくることはよくあります。
相手が自分に対して思い描いているイメージに自分を合わせようとすることもあります。いい女でいようとか、相手はだぶんこういうことを望んでいるのではないかと思って、いろんなことをしてあげたり、でも無理は長続きできず、恋ならけっきょく破局になります。いつも飾らない自分でいるなんていうことは、相手がある以上そんなにできるものではありませんし、自然のままの自分というのも本当のところは良くわからないとしかいえないものです。
自分とはこれこれこうなんだというのではなく、周囲に合わせようとする自分が本当の自分なのかもしれないと思うときもあります。そうやっているうちに自分だけがつちかってきたものというのが見えてくるような気がします。
自分とは違うものにたくさんひかれることができれば、いろんな自分が見えてきます。
その反対に、相手は自分と同じものを持っているとか、同じレールの上の先を行っているとかという思い込みでひかれてゆく場合では、そうでないと気づいたときが悲惨です。幻想に裏切られたとしても本人の責任です。
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