Category: 詩・ショートストーリー
童謡の『サッチャン』(阪田寛夫作詞)の三番の歌詞です。
 さっちゃんがね
 遠くへ行っちゃうって ほんとかな
 だけど ちっちゃいから
 ぼくのこと 忘れてしまうだろ
 さびしいな さっちゃん

「遠くへいっちゃう」ことの意味について、もしかして天国のことなのかもと思ったこともあったのですが、「ぼくのこと 忘れてしまうだろ」というのは、生きているから忘れることができるのであって、やっぱり引っ越しの歌なんだろうなと思います。

作曲家の宮川彬良さんが「深読み」だといって、「ぼくのこと 忘れてしまうだろ」のところは、逆に言えば「ぼくだけは君のことを忘れない」という意味になるので、天国の歌にもとれるようなお話。ついぐっときてしまいました。
なるほどね♪

サッチャンがもう少し大きくなってたら、「あなたのことは一生忘れない」と言ってくれたかもしれませんね。それが言えなかったのは、ちっちゃかったから。
考えてみれば、「あなたのことを忘れない」という言葉が使えることは、とても幸せなことなのですね。

そして大事なことは、引っ越しだとか、人の死だとか、世の中にはどうすることもできない悲しい別れがあるということです。そういうときは、ただ泣くしかありません。泣けることもまた幸せなことなのでしょう。
ときどき背負いきれないほどの悲しみが背中に重くのしかかってくるときがあって、そういうときは、少しづつその重みに慣れていくしかないんだと、あるおばあちゃんが言っていました。

(サッチャンの深読みについては、学校の怪談のようになっているのもあるようですが、そういうのは詩的な世界から、遠くへいっちゃってますね)
こもれ日「誰が風を見たでしょう。ぼくもあなたも見やしない」
という童謡の歌があるのですが、あまり知られていないかもしれません。
詩は西条八十だとずっと思っていたのですが、オリジナルではなく外国の詩の「訳詞」みたいです。

詩の続きは、
「けれど木の葉をふるわせて、風は通り過ぎてゆく」
となります。見えないはずの風なのに、木の葉の揺れを見てはじめて風の存在に気づくというような……、ちょっと理屈っぽい詩ではあるのですが、子どものころは、そういう理屈以上の何かを、その詩の中に感じていたようにと思います。

木の枝が揺れるときは、枝はバネのように揺り返して、しかも一本一本の枝はバネの強さも違いますし、傾きやすい向きも違いますから、たくさんの枝がとても複雑な動きをします。まるで生きてるみたいに。もちろん植物としては生きてるのですが、動物のように、妖怪のように見えてくるから不思議です。

木は、自分で風を呼び込んで、自分自身で揺れることもあるのかもしれません。
でもそれは、あなたも私も、誰も見ていないときの出来事なのかもしれません。

今日の風は北風なので、ちょっと寒いです。

テーマ : 詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など - ジャンル : 学問・文化・芸術

日本の最近のヒット曲は、歌詞の内容はとにかく「がんばろう、がんばろう」という内容しか伝わってこないのでつまらないという意見も多いことでしょう。なぜそうなってしまったのか、よくわかりませんが、最近ちょっと思っていたことを書いてみます。

もう20年以上も前に聞いた話なのですが、あるプロ野球のオーナーが試合を観戦に来て、試合後に選手を激励しようと、主砲のアメリカ人選手と面会したそうです。オーナーは帰りぎわにその選手に「これからもぜひがんばってください」と言ったのですが、通訳の人が「がんばって」のところを「ドゥー・ユア・ベスト」と直訳してしまい、選手は急に不機嫌な態度になって「自分はどんなときでも常にベストを尽くしている、そんなことを他人から言われる筋合いはない」ということだったそうです。日本語の「がんばって」は「グッド・ラック」と通訳すれば良かったわけなのですね。

たぶん今の売れてる曲の「がんばろう」も「グッド・ラック」の意味なんでしょう。「いつかきっと……」「どうにかなるさ」「ケセラセラ」……、心情的には昔の歌と変わりないんだと思います。だったらそのような言葉にすれば、もっとイメージが広がると思うのですが、言いにくい時代なのでしょうか。
「グッドラック」ですから、祈りのことです。「がんばろう」というのは、祈りの歌の変種というわけだったのでしょうね。歌はもともと、素朴な祈りの言葉から発生したものだと思うので、とても理にかなっていると思うのです。でも何か違いますね。

ある若い人の詩とブログ(日記)をみたとき、不思議なことに気づきました。ブログでは短く自分の意見も書いてあって、そんな中に詩的な表現もあったのです。でも詩は日常的な描写ばかりでプライベートな日記そのものにみえました。詩が日記になってしまって、日記にときどき詩が入ってるような感じ。ブログは自由に書くからそうなるのでしょう。でも詩に対しては何か固定観念にとらわれているようにみえました。

小学校の国語の授業で子どもに感じたままを書きなさいという教え方は、問題が多いのはほんとうでしょう。感じたままとは、内面描写なのです。「抒情」オンリーの日本の詩歌の伝統が問題だという指摘もありますが、それよりも内面描写とは、自分を客観視できて初めて可能なのです。日本人はそれが苦手だったので、風景描写の中で抒情を表現してきたのでしょう。それは写実とは違います。でも明治のころの「抒情」とは、あの幕末の志士たちの妙なエクスタシーのことを言ってたのかもしれませんね。それはアララギさんたちと直結する傾向です。ウィキペディアのアララギをみたら「写実的、生活密着的歌風」と書いてありましたが、書いた人は皮肉のつもりなのかしら

テーマ : 邦楽 - ジャンル : 音楽

鳩子HPの鳩子の詩集を見ていると、タイムスリップのようなものがモチーフになっていることが多いことに気づきます。
別々に流れていた二つの時間がどこかで交差するようなもの、一つは明らかに虚構の世界のものかもしれないけれど、そうともいえないような。
そして同じに流れていたと思っていた二つの時間のうち、一つの流れがだんだん遅くなって行ったり、止まってしまったり。

人は生れるとき両性具有で、死ぬときも両性具有なら、途中の年月をスリップすることも可能でしょう。
もともと人は両性の存在であったとしたら、多くの人は片方の性をスリップして生きてしまっていることになります。でもそのようにジェンダーをスリップしてしまうちからが、もともと人に備わっているとしたら、もう一度スリップしなおすことも、できてしまうのでしょうね。

今年は雨が多そうなので、すべらないように注意しましょう。
『転ぶ女』http://hatopia.blog10.fc2.com/blog-entry-156.html
茨木のり子という人の「わたしが一番きれいだったとき」という有名な詩のパロディを書いてみました。

私が一番きれいだったとき
森が灰色の道に変わり
しらじらとした空に
小鳥のさえずりを聞いた
鳩子
私が一番きれいだったとき
人々はバスに乗って去り
私は部屋の窓を閉ざして、
2枚のワンピースをかわるがわる着ていた。

私が一番きれいだったとき
トラックが壁を揺する部屋で
遠くの国の戦争のニュースを
ラジオで聞いた。

私が一番きれいだったとき
石畳の上を歩き続け
ハイヒールの傷みを忘れたころに
懐かしい男に出逢った

私が一番きれいだったとき
変わり果てた森に戻って
インターネットも知らずに
詩を書き始めていた
忘れな草紙にアクセスランキング30を発表したのですが、必ずしも特におすすめページということではないのです。16位で「ホームページと詩作」は、詩作法に関心のある人が見てくれたということではなく、「女装小説」という言葉を使ったためにたくさん検索されただけみたいです。

さて、本題。鳩子の詩作法についてですが、
いろいろ考えごとをしながら、たとえば「男女の人口比の不思議」で書いた1行、「なぜ自然は一部の女子を男子の形で産むというややこしいことをするのでしょう?」。こんなことを思ったとき、その1行だけ残して他は全部消してしまって、その1行から前後の言葉を続けて行けば、それで詩ができてしまうわけです。
歌謡でいえば、サビの部分が先にできるということです。「パートタイムの王子さま」なんていうのは、サビがタイトルにもなった例ということなのでしょう。
そんなわけですから、鳩子の詩は、歌謡的です。
「鳩子の詩集」の新作が増えなくても、「なぜ自然は一部の女子を」という感じの詩的(?)フレーズは、ブログのあちこちに書いてますから、書けないスランプではぜんぜんないわけです。だってあの詩集だって知る人ぞ知る「キューユーメッセージ」なるものをちょっと書き直しただけのものなのですからね。
直情的なラブレターみないな詩は、あとで恥ずかしくなりますし、サビが印象的な歌謡型の詩が、鳩子に合ってると思います。
雨上がり 雨上がりの秋の大学通りを、一人の初老の紳士が、ぼんやりと歩いていた。黒っぽいコートの背中を少しかがめて、路地の古書店や喫茶店の店先を横目で懐かしそう眺めながら、少し立ち止まってはまた歩き出し、ときどき街路樹の梢を仰ぎ見ては、ため息をついていた。
 歩道をすれ違う学生たちは、老人には目もくれずに、みな急ぎ足で通り過ぎて行った。そんな中に、一人の背の高いすらっとした、花柄のワンピースを着た30歳くらいの女性が、こちらへ向かって歩いてくるのが見えた。
 ……私の高校時代の英語教師も、よくあんな服を着ていたな
 と、彼は懐かしく思った。
 ……待てよ、ここは私の通っていた大学通りではないか。高校はここではないし、彼女があの教師であるわけがない。
 否定はしてみたが、もともと学生時代を懐かしんでの今日の散歩である。心のタイムスリップが過ぎてしまったのかもしれない。
 ……しかし、あれから40年もたっているのだから、彼女があんなに若いままでいるはずがない。
 そう考えてみると、老人は自分の勘違いについ苦笑せずにはいられなかった。
 そのとき女性は、老人の横を通りすぎた。突然含み笑いをする老人を、けげんそうな顔でちらと見て、通り過ぎて行った。
 老人は一瞬、女性と目があって驚いた。彼の高校教師ではなく、大学時代の1年下の、彼がほのかな恋心をいだいていた忘れることのできないあの彼女に間違いないと、思えた。
 傍らの喫茶店の店先の看板も、昔のままの懐かしさだった。
 ……この店でサークルの仲間とみんなで、遅くまでよく語り合っていたな。彼女はいつも控えめな聞き役だったが、いつも明るい笑顔でみんなの憧れのまとだったっけ。
 老人が後ろを振り返って見ると、彼女はもう10数メートル先を歩いていた。
 ……あの後ろ姿。彼女に間違いない。あのころの私は、彼女とは親しく会話もできず、いつもこうして後ろ姿を見送ってばかりだった。
 老人は、その女性を追いかけて声をかけてみたい衝動にかられた。しかし……と、また思った。
 ……しかし卒業からもう30数年もたっている。彼女であるはずがない。それに背もだいぶ高いようだし……。しかしよく似ているものだ。あんなに似ている人もいるはずがないではないか。もしや彼女の娘さんだろうか。だったら背が高いのもうなづけるわけだ。
 老人は妙に納得して、後を追うのを止め、再び歩き出した。学生時代の美しい思い出は、そのままにしておいたほうがいいのだと思った。
 ……そういえばだいぶ前に噂に聞いたことがあるな。彼女の子どもももう学校を卒業して立派にやっているって。コンピュータの学校だったかな。たしか一人息子で……。
 老人は街路樹の梢を見上げて、またため息をついた。
 ……一人息子? よせやい。誰だい、まったく変な噂を吹き込みやがって。あんなに魅力的な女性じゃないか
 老人が再び振り返ってみると、女性の姿はもう彼方へ消えてしまっていて、空にはぼんやりと虹がかすんで見えていた。
蝉の声
涼しげな、静かな森の陰から、突然に聞こえた蝉の声。
行く夏を惜しむように、そして短い命を悲しむように、
私の心を惹きつけました。
長かった幼年時代のことは、とても語り尽くすことはできずに、
蝉たちの夏は、狂った春のように悲しく響きます。
私の幼い日々の夏にも、啼いていた蝉たち。

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ある有名な作家の国語教科書批判のエッセイ(※)を読んでたら、小学生に詩を書かせるのはやめるべきだ、ということのほかに、中学校の国語教科書に恋愛詩をのせるべきだ、と書いてありました。恋する気持ちを考えたり、言葉の表現力のすばらしさを学んだり、その通りなんじゃないかと思います。
そのエッセイ集は1974年の初版ですから、30年以上前のものになります。

当時の中学生は恋愛詩は知らなくても、学校以外のところで、歌謡曲などの恋の歌はたくさん知っていました。だからそれでまにあいました。でも最近は、なぜか恋の歌というのはなくなってしまったように感じます。最近の歌の歌詞といえば「傷ついたこともあったけど、がんばって行こう」というふうな内容しかなく、ガンバレ・ニッポンじゃないけれどスポーツの応援みたいな言葉を繰り返しているだけに聞こえます。
恋の歌を知らないというのは、とても不幸なことではないでしょうか。

そのエッセイの最後のほうに、「性教育が真面目に取沙汰されている御時世に、これは何といふ間抜けな……」と書かれているのを見て、ちょっと考えてしまいました。
性教育については、数年前から、一部の熱心な教師によって「行き過ぎ」ではないかと言われるようなことが行われてニュースになったりしました。そんな御時世に、恋愛詩のほうは、どうなっているのかしら、と思ったのです。あのエッセイから30年もたっているのですから、少しは改善されているとは思うのですが……。でも「性教育」ほど熱心な扱いはされていないような気もして、不安にかられます。
恋愛が何かもよくわからない子どもに、堂々と性教育がほどこされているのでしょうか。
もしそういう傾向があるなら、恋愛に対して消極的な若者が増えてしまったのは、当然だということになります。
恋愛の多くは、妊娠が可能な異性愛ですから、恋愛教育は少子化対策にもなるかもしれません。

好きな恋の詩や歌をいくつもあげられる私は、しあわせなのかも。
(※ 丸谷才一『日本語のために』新潮文庫)
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hatoko思いっきり暗い話を書きたいような気持ち。
これでもけっこう明るく装っているつもりなのですが、もしかすると根は暗いのかも。暗い話にはどういうのがあるでしょう。

暗い部屋に一人きり、1ヶ月も訪れる人もなくて、ただじっと息をひそめて暮らしている。でもあたしは一人でも楽しいことをどんどん思いついてしまうほうなので、あまり関係ないかも。

世の中に対する欲求もあまりないので、つもりつもった恨みつらみを暗く表現するということもできそうにありません。攻撃的な暗さということですから、ちょっと無理かも。

むかし読んだ少女漫画で、なぜかわからないけど、主人公に次から次へと不幸が襲いかかるような話。そういうのならいけるかもしれません。
定番としては意地悪な継母がいて、父はのんだくれで収入もなく、食べるものも与えられない小さい姉妹。窮乏をみかねた親戚に妹だけ引きとられて、姉妹は離れ離れに。でも妹だけは幸せに暮らしているだろうと思っていたら、ある日のこと、なんていう感じの話が多かったかも。