メーテルリンクの『青い鳥』も思い出深い本です。物語の結末については、みんなよく知っていると思います。しあわせの青い鳥は、ふだん家で飼っている鳥のことで、いちばん身近な存在に気づいていなかっただけのことだったわけでした。
チルチルとミチルが青い鳥を探す旅の途中に、いろんな登場人物が出てきます。「母」ではなく「母の愛」とか。「母の愛」とは存在としては抽象的なものなのですが、それが人格をもって登場人物としてふるまいます。こういうところにとても魅力が感じられる作品です。あるときチルチルとミチルに話しかける声がして、誰かと聞けば、自分は「母の愛」だと答えたりします。戯曲の形式なので、こういうのでも不自然ではないわけです。
日本人はこういう抽象的な思考が苦手なせいか、日本の物語にはあまりないパターンですね。
母の愛とは母の全てではないのかもしれないのですが、だとすると登場人物のすべてが表面に表れない別の面をもっていると考えることもできます。チルチルやミチルでさえそうかもしれないし、平凡な私たちでさえ、表面に出せないものはたくさんあると思います。
トランスジェンダーさんでは、異なる性別の心を複数もっていたりして、それで自問自答したりするのはよくあることです。
「母の愛」という形で現れたのは、子どもに対してだからなのでしょう。人は相手によって違う面が出ることはよくありますし、相手の求めることにこたえたり、相手の不足を補おうとして自分の意外な面に気づくこともあります。
少し前に書いたスタートラインの話ではありませんが、まずスタートしてみないことには自分のこともわからないわけでしょう。
だからチルチルとミチルの旅は、隣の芝生がよく見えたからふらふら出かけたわけではなくて、死者の国も見てくるわけですよね。子どものころから「あの世」に思いをはせることは大事なことなんだと思います。
子どものころの本で、もう一度読んでみたい本の一つ、ヨハンナ・スピリの『アルプスの少女』。昭和30年代の講談社の本の挿絵は、蕗谷虹児でした。(画像は折り込みのカラーの口絵)「アルプスの少女ハイジ」というアニメにもなりましたが、10代なかばでテレビはあまり見なくなってたせいか、主題歌以外はあまり記憶がありません。
原作はかなり長い物語なので、抄訳というかダイジェスト版が多いので、訳者によって取捨選択が違うので、違う本も読んでみたいような気もしますが、時間があるかどうか。
今ぱらぱらめくってみると、ところどころに歌が挿入されているのですね。ミュージカル仕立てのような感じもします。実は鳩子の書きかけの『星のイヤリング』、
http://hatopia.hp.infoseek.co.jp/marchen/earring1.htm
いくつか歌詞のようなのを挿入したのは、知らず知らずにこの本の影響があったわけなんでしょうね。そういうことってあると思います。
「AO円筒」から始まって
2007/05/09
本
あるおしゃべりから「AO円筒」論という言葉を思い出したので、検索してみたら松岡正剛氏のページが出ました。AO円筒とはつまり稲垣足穂のいうA感覚などの身体のことについてのものです。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0890.html
そのページは森村泰昌という人の『芸術家Mのできるまで』の書評なのですが、面白い芸術家の人がいるものですね。自分の身体も作品の材料にしてしまうというか、そんなわけでその人のサイトには、映画の中の女優に扮した写真集があります。
http://www.morimura-ya.com/gallery/actress/
芸術家の男性でなくても、普通の女性でもこういう写真を撮ってみたいと思う人はきっといることでしょう。レンタル衣装でもあればいいですね。
森村氏によると、明治天皇が少年時代の女装をやめて、成人して軍服姿で国民の前に現れることによって、オンナの国だった日本がオトコの国に性転換してしまったのだとか、面白い話があるものです。
ただ、皇族少年の女装は戦時中まで続いたと思われますので、本当に日本が性転換してしまったのは意外にも戦後のことだったはずです。これは反論ということではなくて、言葉の遊戯を楽しみつつ新しい視点でものを見るということです。
けれど明治のころ国民に「女装禁止令」が出たときから、国民の女装は秘すべきものになってしまいました。皇族の女装も秘すべきものとなったと思いますが、まるでトランスベスタイト国家の誕生です(^^?)。
「オンナだった三島由紀夫はオトコに性転換しようとして失敗した」というのもありましたが、どうも三島さんあたりは日本の戦後社会をオンナの国と見ていたのかもしれません。でもやはり戦後の高度成長時代に、私たちのオンナの国は瀕死状態にされたと見るべきです。社会組織のすみずみにまであったオンナの血が抜かれて貧血状態になった感じです。そのときのオンナいじめは巧妙で、戦前の古い国家主義的な価値観を否定して新しい民主社会を打ち建てるのだという、男性価値の否定であるかのような言葉をまといつつ、今の人が日本の旧習だと思っているものの多くを、戦後のこの時期に作り上げてしまったらしいです。数十年前より前の時代は見えなくなってしまったのです。
ちょっとわかりにくいことを書いてますが、つまりデジタル国家はオトコの国なんじゃないかということですね。
さて森村氏が映画『ローマの休日』のオードリー・ヘプバーンに扮した写真がありましたが、鳩子のHPにも、「真実の口」というコラージュ作品があります。
http://hatopia.hp.infoseek.co.jp/collage/c1h7.htm
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0890.html
そのページは森村泰昌という人の『芸術家Mのできるまで』の書評なのですが、面白い芸術家の人がいるものですね。自分の身体も作品の材料にしてしまうというか、そんなわけでその人のサイトには、映画の中の女優に扮した写真集があります。
http://www.morimura-ya.com/gallery/actress/
芸術家の男性でなくても、普通の女性でもこういう写真を撮ってみたいと思う人はきっといることでしょう。レンタル衣装でもあればいいですね。
森村氏によると、明治天皇が少年時代の女装をやめて、成人して軍服姿で国民の前に現れることによって、オンナの国だった日本がオトコの国に性転換してしまったのだとか、面白い話があるものです。
ただ、皇族少年の女装は戦時中まで続いたと思われますので、本当に日本が性転換してしまったのは意外にも戦後のことだったはずです。これは反論ということではなくて、言葉の遊戯を楽しみつつ新しい視点でものを見るということです。
けれど明治のころ国民に「女装禁止令」が出たときから、国民の女装は秘すべきものになってしまいました。皇族の女装も秘すべきものとなったと思いますが、まるでトランスベスタイト国家の誕生です(^^?)。
「オンナだった三島由紀夫はオトコに性転換しようとして失敗した」というのもありましたが、どうも三島さんあたりは日本の戦後社会をオンナの国と見ていたのかもしれません。でもやはり戦後の高度成長時代に、私たちのオンナの国は瀕死状態にされたと見るべきです。社会組織のすみずみにまであったオンナの血が抜かれて貧血状態になった感じです。そのときのオンナいじめは巧妙で、戦前の古い国家主義的な価値観を否定して新しい民主社会を打ち建てるのだという、男性価値の否定であるかのような言葉をまといつつ、今の人が日本の旧習だと思っているものの多くを、戦後のこの時期に作り上げてしまったらしいです。数十年前より前の時代は見えなくなってしまったのです。
ちょっとわかりにくいことを書いてますが、つまりデジタル国家はオトコの国なんじゃないかということですね。
さて森村氏が映画『ローマの休日』のオードリー・ヘプバーンに扮した写真がありましたが、鳩子のHPにも、「真実の口」というコラージュ作品があります。
http://hatopia.hp.infoseek.co.jp/collage/c1h7.htm
なんとなく杉浦由美子著『腐女子化する世界』という本を読んでみました。腐女子という言葉について説明しますが、つまり「やおい」とかボーイズラブのコミックや小説が大好きな若い女性たちのことで、自分たちのことを自嘲してそう呼ぶのだそうです。
ボーイズラブというのは、美少年どうしの同性愛のストーリーなのですが、なまなましいものではありません。作り手も女性たちです。
「やおい」は既存のコミックなどの少年キャラクターを組み合わせて二次的なストーリー(同性愛)に作ったもので、同人誌などで出まわっていて人気があるようです。手塚治虫の『バンパイヤ』に登場するロックとトッペイの二人の少年をラブストーリーに描いてる人のサイトで、短いストーリーのものを見たことがありますが、絵柄も手塚調のしっかりしたものでなかなか面白いものでした。
Wikipediaの「やおい」の項目を見ると、社会学者たちのいろんな論説があるようですが、ちょっと的外れな感じのもあるみたいです。恋愛ストーリーとしては、昭和初期の吉屋信子の少女どうしの友愛物語に感じられる同性愛的なものの系譜にはあるのでしょう。少年と少女は同質のものなのですから、やおいの本質は少年どうしに置き換えただけの「異性愛中心主義」であるか否かとかの論議をしてみてもしかたないでしょう。なまなましさに慣れた大人からは見えないかもしれませんが、思春期の羞恥心はさまざまな迂回路を通って表現形態を得てしまいますし、年齢的な思春期を過ぎても決して消えない記憶なのです。(ふだんの現実の性愛に対しての後ろめたさ、ときには贖罪に近いような意識があるのかどうか、あとで考えてみます)
既製の物語を読んで結末が不満であるとかにこだわるのは女性のほうが多いと思います。「やおい」の語源は「山なし、落ちなし、意味なし」だそうですが、既製の作者が意図した物語の山や谷の地図が、読み手には少し違う地図に見えることはよくありますから、谷が山に見えれば別のストーリーが展開します。同じ地図に見えたら感想も同じになって面白くありません。
腐女子の人たちは、女オタクという認識をされているようですが、男性のオタクと違う点は、孤独に一人だけで楽しむ傾向は少ないような感じ。
で、本のことですが、自分探しとか自己実現とかいって女性誌にあおられて競争するのはもうやめにして、同好の仲間と趣味に生きる(腐女子化する)のが良い、という感じだったでしょうか。それが「落ち」だったと思いますが、そういう「落ち」よりも、心地よく一気に読めるところが魅力の本なのかもしれません。
蛇足ですが、Wikipediaに、ボーイズラブのストーリーは、ゲイの人から違和感が表明されていると書いてありましたが、当たり前です。で、私も「女装小説」というのに違和感を感じています。こういうのは、感情移入するなというのは無理なことですから、ありえないことだらけで違和感だらけです。違和感の少ないのを1つ読了したことはありますが、ああいうのは別のタイプのオタクさんが読むものなのかも。
ミクシのコミュニティを検索したら、「百合な短歌」というテーマで、こんな和歌が紹介されていました。万葉集からです。
夏の野の繁みに咲ける姫百合の知らえぬ恋は苦しきものぞ 坂上郎女
本来は男性への恋の歌なのでしょうが、「百合な短歌」ともとれます。
日替り短歌を表示する某カレンダーソフトのデータを検索してみたら、「百合な短歌」というより「百合の短歌」がいくつか。
雲雀たつあら野におふる姫百合の 何につくともなき心かな 西行
これは迷いもなく達観しているようで、孤高の姫百合という感じ。
たわたわに蕾ばかりが垂れいつつ この山百合の長し真青し 若山牧水
こういう歌がいちばん好きです。蕾とか青しとか、よく見ればたわわに見えるのは、長い青春未満の時代の蕾ばかり、その愛おしさ。
髪ながき少女とうまれ しろ百合に額は伏せつつ君をこそ思へ 山川登美子
「白百合の君」と呼ばれた山川登美子、私生活では三角関係のようなものがあったそうですが、この歌はどう解釈したらよいのでしょう? 額づいたというしろ百合は聖書の比喩にもとれます。それは少女にとっては近代文学への道でもあり、つまりは文学と恋との葛藤なのでしょう。でも百合を違う意味にとるのも読む側の自由なのかも。
夏の野の繁みに咲ける姫百合の知らえぬ恋は苦しきものぞ 坂上郎女
本来は男性への恋の歌なのでしょうが、「百合な短歌」ともとれます。
日替り短歌を表示する某カレンダーソフトのデータを検索してみたら、「百合な短歌」というより「百合の短歌」がいくつか。
雲雀たつあら野におふる姫百合の 何につくともなき心かな 西行
これは迷いもなく達観しているようで、孤高の姫百合という感じ。
たわたわに蕾ばかりが垂れいつつ この山百合の長し真青し 若山牧水
こういう歌がいちばん好きです。蕾とか青しとか、よく見ればたわわに見えるのは、長い青春未満の時代の蕾ばかり、その愛おしさ。
髪ながき少女とうまれ しろ百合に額は伏せつつ君をこそ思へ 山川登美子
「白百合の君」と呼ばれた山川登美子、私生活では三角関係のようなものがあったそうですが、この歌はどう解釈したらよいのでしょう? 額づいたというしろ百合は聖書の比喩にもとれます。それは少女にとっては近代文学への道でもあり、つまりは文学と恋との葛藤なのでしょう。でも百合を違う意味にとるのも読む側の自由なのかも。
犬丸りんさん、安らかに
2006/09/13
本
NHKアニメおじゃる丸の原作者の犬丸りんさんが10日に亡くなったという衝撃的なニュースがありました(自殺)。たぶんとてもつらかったのでしょう。ただ安らかにと祈るしかありません。
私が最初におじゃる丸を見たのは1998年の12月ごろ。番組スタートから2ヶ月くらい過ぎたころでした。おじゃる丸のオッホッホという笑い声も可愛く魅力的で、最初に見た日のストーリーもおぼえています。
古い洋館に住む老女マリーさんの家の庭から古い壷が発掘され、それはマリーさんの青春時代の思い出がたくさんつまったもの、という話でした。幼児向けアニメでなぜこんなストーリーなのだろうと不思議に思ったのですが、このころから番組の人気が急上昇し、「まったり」という言葉も流行していきました。
登場人物に、魅力的なお年寄りが多いのです。トミーお祖父さんや、仲間の喫茶いっぷくのマスターやそのバンド仲間たち。若く美しい日々の思い出のまま故人となった祖母のサリー。骨董の店のタナカヨシコにも思い出がありました。また、長寿の亀の亀田カメ、トメの姉妹や、ヘイアンチョウ時代から生きている木の精霊のキノシタ。
やさしく、まったりとした幻のような世界の中に、青春の暗い陰も見えてしまうドラマではありました。
おじゃる丸のほかは『かんたんに幸せになりたい』など2、3のエッセイ集しか彼女のものは読んでいないので、よくわからないのですが、平安朝時代に若隠居することができたら、もっと楽になれたのかもしれないと、はた目には見えてしまうわけなのですが、「おじゃる丸」は彼女の世界の一部分でしかなかったのでしょう。
「かんたんに幸せになりたい」では「おじゃる丸」には表面に出ない暗さや毒があり亡くなった直後に読むのはつらいものがあるかも。
私が最初におじゃる丸を見たのは1998年の12月ごろ。番組スタートから2ヶ月くらい過ぎたころでした。おじゃる丸のオッホッホという笑い声も可愛く魅力的で、最初に見た日のストーリーもおぼえています。
古い洋館に住む老女マリーさんの家の庭から古い壷が発掘され、それはマリーさんの青春時代の思い出がたくさんつまったもの、という話でした。幼児向けアニメでなぜこんなストーリーなのだろうと不思議に思ったのですが、このころから番組の人気が急上昇し、「まったり」という言葉も流行していきました。
登場人物に、魅力的なお年寄りが多いのです。トミーお祖父さんや、仲間の喫茶いっぷくのマスターやそのバンド仲間たち。若く美しい日々の思い出のまま故人となった祖母のサリー。骨董の店のタナカヨシコにも思い出がありました。また、長寿の亀の亀田カメ、トメの姉妹や、ヘイアンチョウ時代から生きている木の精霊のキノシタ。
やさしく、まったりとした幻のような世界の中に、青春の暗い陰も見えてしまうドラマではありました。
おじゃる丸のほかは『かんたんに幸せになりたい』など2、3のエッセイ集しか彼女のものは読んでいないので、よくわからないのですが、平安朝時代に若隠居することができたら、もっと楽になれたのかもしれないと、はた目には見えてしまうわけなのですが、「おじゃる丸」は彼女の世界の一部分でしかなかったのでしょう。
「かんたんに幸せになりたい」では「おじゃる丸」には表面に出ない暗さや毒があり亡くなった直後に読むのはつらいものがあるかも。
萩原朔太郎の「恋を恋する人」
2006/08/10
本
萩原朔太郎の詩集『月に吠える』(大正6年)から

恋を恋する人
わたしはくちびるにべにをぬって、
あたらしい白樺の幹に接吻した、
よしんば私が美男であらうとも、
わたしの胸にはごむまりのやうな乳房がない、
わたしの皮膚からはきめのこまかい粉おしろいのにほひがしない、
わたしはしなびきった薄命男だ、
ああ、なんといふいぢらしい男だ、
けふのかぐはしい初夏の野原で、
きらきらする木立の中で、
手には空色の手ぶくろをすっぽりとはめてみた、
腰にはこるせっとのやうなものをはめてみた、
襟には襟おしろいのやうなものをぬりつけた、
かうしてひっそりとしなをつくりながら、
わたしは娘たちのするやうに、
こころもちくびをかしげて、
あたらしい白樺の幹に接吻した、
くちびるにばらいろのべにをぬって、
まっしろの高い樹木にすがりついた。
昨日コメントしていただいた島崎藤村の「初恋」とは違った趣向の恋愛詩はないかしらと、探してみたら、たまたま目にとまりました。
すごいですよね…… ^^;
MtFトランスジェンダーの中には、男性が好きというより、男性に愛されている自分自身への陶酔感を告白する人も多いですし、一人で自分の姿を意識するだけで酔ってしまうような人もいます。そういう意味で「恋を恋する人」なのかも? でもそういうことにかんしては程度の差はありますが一般女性にも見られることのような気がします。
詩の内容は、ちょっと情けないイメージを感じてしまうのがイマイチかも……。
朔太郎のこの詩集は、この詩ともう一つの詩が原因で発禁処分になったとか。
(アンダーラインの部分は原文では傍点です)

恋を恋する人
わたしはくちびるにべにをぬって、
あたらしい白樺の幹に接吻した、
よしんば私が美男であらうとも、
わたしの胸にはごむまりのやうな乳房がない、
わたしの皮膚からはきめのこまかい粉おしろいのにほひがしない、
わたしはしなびきった薄命男だ、
ああ、なんといふいぢらしい男だ、
けふのかぐはしい初夏の野原で、
きらきらする木立の中で、
手には空色の手ぶくろをすっぽりとはめてみた、
腰にはこるせっとのやうなものをはめてみた、
襟には襟おしろいのやうなものをぬりつけた、
かうしてひっそりとしなをつくりながら、
わたしは娘たちのするやうに、
こころもちくびをかしげて、
あたらしい白樺の幹に接吻した、
くちびるにばらいろのべにをぬって、
まっしろの高い樹木にすがりついた。
昨日コメントしていただいた島崎藤村の「初恋」とは違った趣向の恋愛詩はないかしらと、探してみたら、たまたま目にとまりました。
すごいですよね…… ^^;
MtFトランスジェンダーの中には、男性が好きというより、男性に愛されている自分自身への陶酔感を告白する人も多いですし、一人で自分の姿を意識するだけで酔ってしまうような人もいます。そういう意味で「恋を恋する人」なのかも? でもそういうことにかんしては程度の差はありますが一般女性にも見られることのような気がします。
詩の内容は、ちょっと情けないイメージを感じてしまうのがイマイチかも……。
朔太郎のこの詩集は、この詩ともう一つの詩が原因で発禁処分になったとか。
(アンダーラインの部分は原文では傍点です)
先月、"江戸文化研究家"の杉浦日向子さんの一周忌の少し前に、新潮文庫から新しい本が3冊出たので、買ってみました。『ごくらくちんみ』『お江戸でござる』『4時のおやつ』の3冊です。
3冊のどれだったかあいまいなのですが、50代?くらいの女性の人の解説がついていて、最近の道端にしゃがみこんでいる若者たちの、何か大きなことをめざすのでもなく、ただみんなでのんびりしている感じは、もしかすると江戸時代の庶民の感覚と同じようなものではないかとか、それにくらべると自分たちは何ごともスピーディーで無駄がなく見え、会話でもなんでも一つのことに何でもかんでも詰め込んでしまって、いつも焦って暮らしているようで、彼らがうらやましい、といった感じのことを書いていました。(実際はもっと違うニュアンスや事例だったかも)
あたしもだんだんそういう年代に近いでしょうから、だんだん焦り出しているようなところがありますね。何か大事なことをし忘れたまま、今の年齢になってしまったように思えて……。
最近あるftmの若い人に書いたメールは、内容がまとまらないままたくさん詰め込みすぎで、あれではあまり理解してもらえないだろうと、反省しています。

→ 杉浦日向子さん関連の記事
3冊のどれだったかあいまいなのですが、50代?くらいの女性の人の解説がついていて、最近の道端にしゃがみこんでいる若者たちの、何か大きなことをめざすのでもなく、ただみんなでのんびりしている感じは、もしかすると江戸時代の庶民の感覚と同じようなものではないかとか、それにくらべると自分たちは何ごともスピーディーで無駄がなく見え、会話でもなんでも一つのことに何でもかんでも詰め込んでしまって、いつも焦って暮らしているようで、彼らがうらやましい、といった感じのことを書いていました。(実際はもっと違うニュアンスや事例だったかも)
あたしもだんだんそういう年代に近いでしょうから、だんだん焦り出しているようなところがありますね。何か大事なことをし忘れたまま、今の年齢になってしまったように思えて……。
最近あるftmの若い人に書いたメールは、内容がまとまらないままたくさん詰め込みすぎで、あれではあまり理解してもらえないだろうと、反省しています。

→ 杉浦日向子さん関連の記事

1983年に冬樹社から発行された『少女図鑑』という本を、何年かぶりに開いてみました。
「美少女」という言葉が一般によく使われるようになったのが、1980年代中ごろからだそうですので、その直前のものということになります。ちょうどアイドル歌手の松田聖子や中森明菜が全盛期のころです。
内容は10何人かのおじさまたちがそれぞれのイメージの少女を語る文章が中心になっています。読まずに挿し絵だけを眺めています。
挿し絵は奇麗なものもありますが、どちらかというとホラー系のエロチシズムといった感じのものが多いです。
これより数年前には山口百恵を語るおじさまたちもいて、ある種の演歌(怨歌?)を語っていたようなところもあったのですが、そういう色彩もまだ色濃く残っているような印象です。
でも過渡期の混沌としたものも感じられて、いろんなイメージをかもしだしてくれそうな「図鑑」ではあります。(画像は1ページだけスキャナしたもの)
古い本の挿し絵画像の著作権は?
2006/05/03
本
昨日からタイトルの画像を変更しました。
森の大きな木のたもとで少女が本を読んでいます、そしてそれを森の動物たちが見ている絵です。
オリジナルの絵は、古本屋さんで見つけた講談社の雑誌『なかよし』の昭和31年2月号附録の漫画の本の見返しに印刷されていたもので、50年と3ヶ月前の発行です。漫画の作者はわかるのですが、この絵は別の人の絵で、作者名はわかりません(右下のYとAをつなげたようなマークが作者のイニシャルなのかもしれませんが)。
作者の不明なものや団体著作物にかんしては、発行後50年で著作権が切れるらしいです。昭和30年代には質の悪い紙の雑誌に作者のはっきりしないような挿し絵がたくさん載るようになったのですが、著作権切れという扱いで良いのでしょうね……。
森の大きな木のたもとで少女が本を読んでいます、そしてそれを森の動物たちが見ている絵です。
オリジナルの絵は、古本屋さんで見つけた講談社の雑誌『なかよし』の昭和31年2月号附録の漫画の本の見返しに印刷されていたもので、50年と3ヶ月前の発行です。漫画の作者はわかるのですが、この絵は別の人の絵で、作者名はわかりません(右下のYとAをつなげたようなマークが作者のイニシャルなのかもしれませんが)。
作者の不明なものや団体著作物にかんしては、発行後50年で著作権が切れるらしいです。昭和30年代には質の悪い紙の雑誌に作者のはっきりしないような挿し絵がたくさん載るようになったのですが、著作権切れという扱いで良いのでしょうね……。


