Category: ジェンダー
テレビやラジオで事件のニュースを聞いていると、被害者については、ほとんど匿名ではあるのですが、性別や年齢については必ず言われてしまうようなのですね。

被害者のことは「女性」と言いますが、加害者で名前のわからない場合は「女」と言ってます。「女性」より「女」のほうが価値が低いのかどうかはわかりませんが、アナウンサーはハッキリ区別して言います。少年法が適用される年齢では、被害者も加害者も「少女」と言いうようです。

その性別はどうやって判断するのか気になりますが、犯人で名前もわからなければ、目撃情報ということになるでしょうね。見た目ということです。被害者については、たぶん警察の事情聴取かなんかがあって、本人が署名するときに性別欄もあるのではないでしょうか。

少し昔は、容疑者なら「A」とか「A子」、被害者なら「Aさん」で、性別感は薄かったように思います。「少女A」というのもありましたけど。それより昔は実名報道で、容疑者なら苗字を呼び捨てにされたわけで、性別感はないわけです。

最近のニュースは「女は」とか「女性は」とかいう言葉を、何度も何度も繰り返すことになるので、耳障りではあるわけです。
このごろは身分証明書の性別欄を廃止するような動きもあるようですし、でもどうなんでしょうね
性(sex)という言葉の英語の語源は、「分けられたもの」という意味だったと思います。ギリシャ神話のアンドロギュノスの伝説で、もともと男女は一つのからだだったのが、男女別々に分けられてしまったので、男女はたがいに引かれあい恋愛をするのだというお話と付合するわけです。

大和言葉ではsexに当たる言葉がなかなか見つかりませんが、ある人の意見では、性愛を意味する古語にクミドという言葉があり、これは「クナドの神」などの境界を意味する古語のクナドに通じるものだそうです。クミドがもとは境界の意味だとしたら、英語の発想と共通のものがあるわけです。

そしてこの境界は越えることも不可能ではありません。「黒の舟唄」という流行歌に「男と女の 間には深くて暗い 川がある」という文句がありましたが、ある種の諦念も既に含まれているような東洋的な発想なのかもしれません。

ところで肉体的な性と社会的な性役割(ジェンダー)を区別しなければならないというのは、最近の学術用語のことなので、それ以前は「性」という言葉でさまざまなことが語られてきた長い歴史があるわけです。

さて、境界は、はっきりしたものとして存在します。ただし個人の中には両方が混在することもあるのでしょう。
中性的というのは、日常生活では概念化することのできないもので、優しい性格の男性を中性的と言ったりするような程度の問題ですし、男と女が対極的な存在であるかどうかも疑問です。
けれどふだん他人と接するのに、相手が男か女かを四六時中意識することもありません。見た目や言葉やものごとの発想の印象が女性的だったら、女性と感じれば良いわけです。
でも感じたことと実際が違っていても、それはあまり言うべきことではないのでしょう。(程度にもよりますけど)

……何か違うテーマで書こうと、その導入部のつもりで書き始めたのですが、数日して最初のテーマがわからなくなってしまいました。そのままアップロードしてみます。
hatoco肺が小さめだと肺病になりやすいのではないかと昔、漠然と思ったことがあります。女性はだいたい肺が小さいですが、女性はそういう病気が多くなるのでしょうか……、

「呼吸器疾患における性差について」
http://www.nahw.org/Local/Lib/Nagayama0001.htm
というページによると、子どもの喘息は男児のほうが多いそうで、成人後になると女性が多くなるそうです。
男性は20歳過ぎてもまだ肺容量が増加しますが、女子は早期に肺の成長が止まってしまうそうです。そうなんですか、鳩子はかなり早く止まったと思いますね。
女性も中年といわれる年齢になると胸板が厚くなる人が多いですが、これは肺の成長ということとは違うんでしょうね。

女性は肺が小さいせいか、呼吸が苦しいなどの自覚症状がすぐ出るので、呼吸器系の病気については早期発見ができるので、かえっていいみたいです。なるほど。
肺病といえば昔は文学青年の持病みたいなものでしたよね。(5/15)
男と女の関係も需要と供給のバランスがあるのでしょうから、このごろのトランス業界はどうなのでしょうか。GIDブームで女が過剰になってるでしょうし、特に若い人ですよね、若い人が増えれば年配男性も若い子のほうに目が行くのはしかたないでしょう。

一般の男女の人口の比率は、今は50歳過ぎで等しくなるそうで、適齢期の男女では男が多くなってしまったわけです。現代は子どもが死ななくなったからです。医療が進歩したからではなく、経済的に豊かになったためにすぐに医者に見せられるからというのが本当のことらしいです。

江戸時代の江戸の町では、男のほうが圧倒的に多かったそうで、男が結婚できないのは当たり前、間男をするか女郎を買うかでしょう。だから子どもが生れて父親が誰なのかうるさいことはあまり言わなかったらしいです。
現代はプチ江戸時代に近づくのかというと、そうじゃないでしょうね。男が多かったのは地方から職を求めて都市に移住した人が多かったせいですから、今は女性もたくさん移住します。今の東京は若い男女の人口の差がどんどん等しくなってると思います。結婚しない人が増えたのは、需要と供給のバランスとは違う問題なのでしょう。
でも都会で男女の数の差がなくなってくると、激しい失恋というのも少なくなってくるかもしれません。それで流行歌でも失恋の歌がはやらなくなったのかも? ま、それだけが理由ではないでしょうけど
こもれ日ジェンダーというか、男らしさとか女らしさとかについての葛藤やら煩悩やらの超越した地点(それを彼岸と表現してみます)のことを、ぼんやり考えます。

戦争にあけくれた20世紀以後は、社会の男らしさは大きく変わらざるを得なかったと見ます。他の時代も戦争は多かったかもしれませんが、徴兵制度のような組織化された軍隊に特徴がある時代でした。官僚組織は軍隊組織と同じものですが、社会組織のすみずみまで官僚組織のようになっていった時代の男らしさは、男性本来の一匹狼のような存在を認めなくなりました。一人一人が監督となって物を作るという男性らしさも軽く見られますし、男性が美しくなくても良い時代にもなってます。歌を忘れたカナリア状態という感じ。

女性らしさもそういう社会の影響は受けるのですが、組織に関わる程度が低いので、比較的変化は少なかったと見ます。現代風の男性らしさは、社会組織によってからだにたたきこまれることが多いのに、女性らしさは時には教養のように言葉で語られることが多いというのもあります。
女性らしさとは何かというと、調和の力とか、伝承すること、周期的なリズムとかいうものなんでしょうね。周期的なものの代表は月の周期ですけれど、揺り篭のリズムもありますし、季節や時間を敏感に察知して、この道はいつか来た道なんていう感じで、それなりに進歩を確認できることもあるかもしれません。

そういう女性らしさに男性も少し近づいてみるのも良いかも。これからも社会の技術の進歩は続くのでしょうけど、文明の進歩は続くとは限りません。男性の中の女性らしさを排除してきたのが20世紀だったような気もします。男性にとっての伝承行為は、直接の師弟関係によるものだったのでしょうけど、そういうのはもう望むべくもない世の中になってるみたいですし。
タイトルは看板倒れでした。
室内O・ヘンリーの短編に「金庫破りのジミー」(原題・取り戻された改心)というのがあります。

ジミーが恋した女性には娘がいました。その子が、ある日、金庫に閉じ込められてしまうという事件がおこりました。早く鍵を開けないと女の子は窒息死してしまいます。けれど鍵はありません。
ジミーは、実は、もと金庫破りだったのです。鍵がなくても金庫を開けるのは簡単にできます。でも、そんなことをすれば金庫破りのお尋ね者であることがばれてしまいます。せっかくつかみかけていた恋も失うことになるでしょう。
ジミーは悩みましたが、思い切って自らすすみ出て、金庫の鍵を開けて、女の子を助け出しました。人々はジミーの過去を知って驚きましたが、誰も警察に突き出すということはしなかったというようなお話。

改心したものは救われるというキリスト教の道徳があるそうです。でもキリスト教にかぎった話ではないのでしょう。
最近見たテレビドラマの「逃亡者」の再放送でも、ある町で子どもを助けた逃亡者を、町の人たちが匿うという話がありました。逃亡者は改心したのではなく、最初から犯人ではないわけです。ここでは、裁判で正々堂々と無実を証明しなさいとか、裁判だけが正義です、という考えはないわけです。

今の人がよく口にする言葉に「ルールはルールだ」というのがあるのですが、けれどルールはルール以上のもの、つまり道徳や倫理ではないのです。
女性らしさは、そういうときに、愛情を込めてルールを無視します。男性らしさは、ルールと道徳が葛藤を起こして、ルールを越えた倫理や哲学を構築しようとするものだと思います。

話は違いますが、1960年代のアメリカのポップスで「トゥー・メニー・ルール、早く大人になりたい」というような歌がありました。子どもは、家に遅く帰るとママに叱られたり、そのほか、あれもいけない、これもいけないで、子どもにはルールが多すぎるので、早く大人になりたいという歌詞なのですが、ルールを越えたところに大人も子どもも夢を見た時代があったのですね。今は夢が破れてしまった時代だから、「少年のままでいたい」と歌うのでしょうか。

ところで女性となったトランスジェンダーが、ある人を救うために、自分が男性だった過去をさらけ出すなんていう小説を書くのはどうかなと思いました。
年末年始はついテレビをよく見てしまいますが、年末のトーク番組で松任谷由実女史が言うには、

> 女性はほうっておくとどんどん低い声になる、男性は高い声になる、ホルモンの関係らしい

というお話……。声だけでなく年齢とともに容姿も感受性もだんだん中性的になってゆくのかもしれませんね。人は生まれたとき中性的だったとしたら、老いもまた中性的なものに戻って行くことなのかもしれません。そういう年齢を迎えるための心の準備も必要になってくることでしょう。

さてお正月の懐メロ番組では、女性歌手は、ほとんどのの人が声が低くなっていました。男性歌手はちょっとわかりません。男性歌手は若い時代に中性的な魅力というか無理に高い声を出してた人も多かったかもしれませんので。
ミニスカートで一世を風靡したある女性歌手は、今も美脚でしたが、プロポーションはやや胸板が厚めになってしまったというか、これも一種の中性化と考えればやむをえないことなのかもしれません。でも男性のプロポーションは、女性化ではなく幼児化してゆく感じです。
ある人が言うには「女性はおじいさん化する、男性はおばあさん化する」ということらしいです。
両性的だった人も、中性化することでしょうね。
現代の日本語の一人称代名詞について、関東地方での使われ方を考えてみます。

女子は、幼少時にアタシ(またはワタシ)を使い始めると、ほぼ一生その言葉だけを使い続けるようです。
男子は複雑です。幼少時にボクまたはオレを使い始め、中学生のころオレがかなり優勢となります。高校生以上ではオレとボクを使い分ける人が多くなり、大学生や社会人になるとさらにワタシを使い分けるようになります。昔の軍隊ではジブン(自分)というのもあり、今も使われます。

現代の日本人男子は、これほどの使い分けを強いられ、それは特に思春期のころの自我の形成に影響を及ぼすこともあるのではないかと思います。
小学生のころボクと言っていた子が、中学生になってすんなり仲間と同じオレと言えれば良いのですが、屈折した気持ちになる男子も少なくないようです。そのような男子は自閉的な心理に陥るのではないかということです。

けれど昔の例では、正統派の江戸古典落語の世界では、庶民の一人称の言いかたは現代とはだいぶ異なります。子どもは男子も女子もアタイです。大人になれば皆アタシなのですが、長屋住まいの男性の中にはオレと言う場合があります。
アタイやアタシは、関西のワテやアテと通じるものなのでしょう。落語家は現代でもアタシと言います。
オレは、江戸周辺の関東地方で、男女ともに使われた言葉が移入されたもののようです。東北地方のオラと通じるものです。仕事を求めて江戸に移住して来た人の言葉ということになります。
元は単純だったようです。男言葉と女言葉の差も、あまりなかったようなのです。
(落語の長屋の職人さんの場合、外向けには「アチシ」とか「アッシ」とも言っています)

明治時代以後になって、男子は複雑な一人称代名詞の使い分けをするようになったわけです。女子はというと、女言葉を独自に洗練させてきました。
こういう流れを、文化の洗練として賞讚する見方もあるようですが、少々の疑問も感じられます。女子は従来の女言葉をだんだん使わなくなっている傾向があると思います。男子も落語家のようにアタシだけで通せたら良いと思うのですが……
先日亡くなった漫画家のはらたいら氏は、男性更年期障害の著作でも有名でした。
それで、「男性更年期障害」を検索してみたのですが、医療機関のPRページばかりで良いものがありません。

一つ見つけた男性たちの相談掲示板では、「治療法の確立にはまだ10年かかる」とか「ホルモン療法は効かない」とかの書込みがありました。
ホルモン療法とは、女性の更年期障害には不足ぎみの女性ホルモンを投与し、男性の更年期障害には同じように男性ホルモンを投与するという療法です。

女装さん、トランスさんたちは、もしそういう年齢になって、「男性更年期障害」と言われたら、男性ホルモンを飲むでしょうか?

男性のからだでも、少しの女性ホルモンが作られているそうですが、その女性ホルモンは補わなくてもいいのかなと思ってしまいます。
Wikipediaを見ると、「男性の場合はテストステロン(男性ホルモン)を元にエストロゲン(女性ホルモン)が作られて分泌される」と書いてありましたが、更年期の男性は、テストステロンからエストロゲンを作る能力は衰えないのでしょうか。
などとつまらない疑問を書いていますが、
男性更年期障害については、ほとんど研究が進んでいないというのは確かのようなのです。

★追記 このテーマについては、『まりっぺの日記』〜「男性の更年期障害」が参考になると思います。
あるページで……、男女のジェンダーの特徴をそれなりに整理した記事を見たのですが、ちょっとその「男性」のとらえ方には失望を禁じえませんでした。
そこに書かれていた男性の特徴とは、「攻撃性」だとか「かたよった脳になりやすい」とかはいいとして、「男にとっての親密さとは、ともに働いたり競争したり、仕事に有用な情報を交換したりすること。 互いの優劣関係がはっきりしていること」といったこと。「優劣関係」の中で上にペコペコ、下には取り込みないしいじめといったこういう男性は、今の管理社会のサラリーマンの一部にはたしかに少なくないのかもしれませんが。
そのページを見て最初に感じたことは、これを書いた男性は、男性であることに嫌気がさしているのではないか、女性への憧れの表明ではないかという同情でした。けれど、まりっぺさんの「ネット上の男たち」 という記事を見ると、今のネット好きの男性の書いた正直な自己分析に見えてきてしまいます。上下関係には従順だということは攻撃性は弱いものにしか向かないことになりかねません。

以前見た男脳女脳判定のページでは、女性は集団生活を好み責任感に欠ける傾向があるとか、男性は責任感が強く孤独を好み、自分の大事なもの(家族とか)を守るためにはたとえ一人になっても外敵と戦い抜くといったことが書かれていました。アメリカ西部劇のヒーローのようなのですが、男性の理想像の一つではあるのでしょう。
日本の股旅物でも同様で「たとえお縄を頂戴しても」戦い抜くのが男なのですが、こちらでは見返りの家庭的な幸福は求めずに再びさすらって行くのが男でした。

けれど現代社会の複雑さの中では、戦う相手が巨大な暗黒星のような認識に達してしまう男性もあるのかもしれません。そのときは、男性も範囲を狭めた自分なりの落とし所のようなものを見つけるなりしないといけないのかもしれません。
あるいは東洋的な遁世という発想を、生活のところどころに取り入れることはいかがでしょう。
ときどき見かける真面目すぎるFtMさんを見ると、男性的な観念性や、飄々とした風流人の発想を取り入れたらいいのにと思うのですが、ちょっと難しいのかもしれません。MtFはトランスすること自体が男性的な遁世にすぎないこともあり、その限りではどこまで行っても男性的なわけですから、FtMとは単純な裏返しではないわけなのでしょう。