「手なし娘」という昔話があるそうです。グリム童話にも似たようなのがあるそうです。あらすじはこんな感じ
女の子が毎日継母にいじめられて、継母に腕まで切られて「手なし娘」になってしまいます。
けれど彼女は不自由なからだで苦労しながら成長し、やがてお婿さんをもらって家庭を築き、子どもも生れます。
ある日、子どもをおんぶしながら娘が川で洗濯をしていると、おんぶの紐がほどけて子どもは川に落ちてしまいました。娘はとっさに先のない腕をさし伸ばして子どもを助けようとしました。そのとき、娘の腕の切られたところから新しい手が再生して、子どもをしっかり抱きかかえ、子どもを助けることができたのです。それは観音様の霊験によるものだとのことです。
もしかすると実際には、手は切られたのではなくて、手の機能を母親に奪われていただけなのかもしれませんね。その母親とは継母に限らず、一般の母親でもありうることです。
娘の自由や一人立ちを妨害する母親ということです。
娘は成人して結婚はしたのですが、子どもを助けようと行動を起こしたとき、初めて自立した成人となったということなのではないでしょうか。川の流れは急で、もしかすると自分も流されてしまうかもしれません。それでも勇気をふるって、劇的な場面で行動を起こしたということなのでしょう。
さて私自身のことをいえば、親族ないしは何らかの大きな力によって、これまで自由を奪われてきたことがあったり、ある一歩を踏み出せないできたといえないこともありません。でもそれを越えるための劇的な場面というのに、なかなか遭遇しません。
じつは劇的な場面は何度かあったけれど、それに気づかなかっただけ、というのでは、ちょっと情けない人生になってしまいますよね +.+;
そうではないとは思うのですが、気づく能力というのは大事なのでしょう。
女の子が毎日継母にいじめられて、継母に腕まで切られて「手なし娘」になってしまいます。
けれど彼女は不自由なからだで苦労しながら成長し、やがてお婿さんをもらって家庭を築き、子どもも生れます。
ある日、子どもをおんぶしながら娘が川で洗濯をしていると、おんぶの紐がほどけて子どもは川に落ちてしまいました。娘はとっさに先のない腕をさし伸ばして子どもを助けようとしました。そのとき、娘の腕の切られたところから新しい手が再生して、子どもをしっかり抱きかかえ、子どもを助けることができたのです。それは観音様の霊験によるものだとのことです。
もしかすると実際には、手は切られたのではなくて、手の機能を母親に奪われていただけなのかもしれませんね。その母親とは継母に限らず、一般の母親でもありうることです。
娘の自由や一人立ちを妨害する母親ということです。
娘は成人して結婚はしたのですが、子どもを助けようと行動を起こしたとき、初めて自立した成人となったということなのではないでしょうか。川の流れは急で、もしかすると自分も流されてしまうかもしれません。それでも勇気をふるって、劇的な場面で行動を起こしたということなのでしょう。
さて私自身のことをいえば、親族ないしは何らかの大きな力によって、これまで自由を奪われてきたことがあったり、ある一歩を踏み出せないできたといえないこともありません。でもそれを越えるための劇的な場面というのに、なかなか遭遇しません。
じつは劇的な場面は何度かあったけれど、それに気づかなかっただけ、というのでは、ちょっと情けない人生になってしまいますよね +.+;
そうではないとは思うのですが、気づく能力というのは大事なのでしょう。
某故事ことわざ辞典を開いてみました。
男色老いを破り、女色舌を破る
男色は老成した人をも道に迷わせ、女色は人の教えや忠告も曲解させる、という意味のようです。
ここでは「老い」も「舌」も、プラスイメージの言葉になってます。そこでマイナスイメージで新解釈を行なうと、
男色は老いを免れ、女色はつまらぬ人生論を捨てさせる、ということになりますが……
高野六十、那智八十
高野山や那智山では、六十歳、八十歳になっても男色が盛んだというお話。すごいですね。
もとは和紙の数え方で、高野紙は一帖が六十枚、那智紙は一帖が八十枚だったことから、それに掛けて言われたらしいです。
山寺に稚児、里には女房、宿には宿殿
「どこへ行ってもそこにはそこなりの色遊びの相手がいる」という意味。里は遊里のことだそうで、「女房」も遊女のことになります。宿は宿場の意味で、宿殿とは色んな芸人さんたちのことらしいです。
男色老いを破り、女色舌を破る
男色は老成した人をも道に迷わせ、女色は人の教えや忠告も曲解させる、という意味のようです。
ここでは「老い」も「舌」も、プラスイメージの言葉になってます。そこでマイナスイメージで新解釈を行なうと、
男色は老いを免れ、女色はつまらぬ人生論を捨てさせる、ということになりますが……
高野六十、那智八十
高野山や那智山では、六十歳、八十歳になっても男色が盛んだというお話。すごいですね。
もとは和紙の数え方で、高野紙は一帖が六十枚、那智紙は一帖が八十枚だったことから、それに掛けて言われたらしいです。
山寺に稚児、里には女房、宿には宿殿
「どこへ行ってもそこにはそこなりの色遊びの相手がいる」という意味。里は遊里のことだそうで、「女房」も遊女のことになります。宿は宿場の意味で、宿殿とは色んな芸人さんたちのことらしいです。
MTF観音、FTM地蔵
2007/06/18
古典文学
あちこちのお寺にまつられる観音さまは、女性の仏さまだと思っている人が多いことでしょう。鎌倉の長谷観音の住職さんがコメントされたページを読むと、男女どちらでもありうるようなお話しでした。
観音さまは、古代のインドでは男性だったそうで、勢至菩薩が知をつかさどるのに対して、観音菩薩は慈愛をつかさどったことから、女性的だったのでしょうか、中国から日本へと伝わるうちに、ジェンダーがトランスして女性のようになってしまいました。男性から女性なのでMTF?。
道端に多いお地蔵さまは、石の像を見ても男性のお坊さんのようです。インドでも男性だったらしいのですが、生前は女性だったそうです。もとはインドの神さまではなくて、西アジアで信仰された地母神だったのが、仏教に取り入れられて、ジェンダーがトランスして男性になったらしいです。お地蔵さまが日本で人気があるのは、子どもにも見えるし女性的な感じもしなくはないようなところにあるのかも。
関係ないかもしれませんが、西アジアの地母神といえばギリシャ神話にも取り入れられたキュベレーという神さまがいました。キュベレーは両性具有だったけれど暴れ者だったために去勢されて女性になったという話があります。
観音さまについて、おおもとのインドの仏典に男性として描かれるのだから、男性だと、無理にそうしなくも良いわけなのでしょう。たくさんの国へ広がっていった宗教というのは、いちばん最初の時点でもう広がっていこうという志向があったみたいで、体系が整ったときには既にさまざまの国々の神々が寄せ集まっていたものだったのでしょう。中国や日本に広がっていくときも中国や日本の神さまの性格が加わっていったわけです。というふうに考えると、やはり男女どちらでもありうるということなのでしょうね。
観音さまは、古代のインドでは男性だったそうで、勢至菩薩が知をつかさどるのに対して、観音菩薩は慈愛をつかさどったことから、女性的だったのでしょうか、中国から日本へと伝わるうちに、ジェンダーがトランスして女性のようになってしまいました。男性から女性なのでMTF?。
道端に多いお地蔵さまは、石の像を見ても男性のお坊さんのようです。インドでも男性だったらしいのですが、生前は女性だったそうです。もとはインドの神さまではなくて、西アジアで信仰された地母神だったのが、仏教に取り入れられて、ジェンダーがトランスして男性になったらしいです。お地蔵さまが日本で人気があるのは、子どもにも見えるし女性的な感じもしなくはないようなところにあるのかも。
関係ないかもしれませんが、西アジアの地母神といえばギリシャ神話にも取り入れられたキュベレーという神さまがいました。キュベレーは両性具有だったけれど暴れ者だったために去勢されて女性になったという話があります。
観音さまについて、おおもとのインドの仏典に男性として描かれるのだから、男性だと、無理にそうしなくも良いわけなのでしょう。たくさんの国へ広がっていった宗教というのは、いちばん最初の時点でもう広がっていこうという志向があったみたいで、体系が整ったときには既にさまざまの国々の神々が寄せ集まっていたものだったのでしょう。中国や日本に広がっていくときも中国や日本の神さまの性格が加わっていったわけです。というふうに考えると、やはり男女どちらでもありうるということなのでしょうね。
奈良県の吉野から三重県の熊野までの広い山岳地帯は、平安時代から山伏などの修行者の山だったらしく、大峰山(大峯山)と呼ばれます。秋夜長物語に登場する稚児の梅若が天狗にさらわれて洞窟に閉じ込められた場所も、大峰山でした。大峰山は天狗の棲む異界のようなイメージでした。そこから脱出してまもなく梅若は入水して果てたのでした。
また源義経が兄頼朝の追手から逃れて、奥州へ旅立とうとしたときも大峰山を経由しています。そのとき京から追いかけてきた静御前が義経と別れたのは、山の入口の吉野だったと思います。この二人もまもなく破滅してゆきます。
元服男性の義経は山を無事通過しましたが、白拍子の静御前は手前で止められ、稚児の梅若は一時幽閉されただけということになりますが、そういったことと女人禁制の山であることとの関連は、よくわかりません。
今でも大峰山の一部の山は女人禁制であるらしく、熊野の周辺で行われる祭礼行事のなかには、男子だけしか関われないものも少なくないようです。同様のことは各地のさまざまな祭礼で行われていることではあるのですが……。
女人禁制の意味については、山の神が女神なので、女子を近づけなければ、神は怒らず豊饒が約束されるからだといった説明がされています。でもそれ以外の理由もなくはないのかもしれません。
梅若や義経の物語には、どうしても死のイメージがつきまとっています。平安時代ごろは、修験者たちの修行の目的が安楽死であったことと、それは符合します。海でも山でも、そこは死への入口なのですから、やはり男子たちの中に女子が混じると、「生」があちこちに誕生してしまって、「生」の行き場がなくなってしまうからのようにも思えるわけです。
熊野の周辺の祭礼で行われる「女装」は、人間の女を装うのではなく、山の神が現れたときの表現なのでしょうね。山の神が、女装する人に憑依するわけなのでしょう。
もう十五夜は過ぎてしまったと思ったら、今年は旧暦7月が2回でうるう月なので、来月6日が十五夜です。南方熊楠という人の『十二支考』(2 兎に関する民俗と伝説)という本に、「兎の尻に九孔あり」という俗説のことが書かれていました。あそこの穴が9つとはどういう意味なのでしょうね、変なことを想像してしまいそうですが……?。
その本には、ギリシャやローマで、兎は両性具有のように言われたことも書かれています。
オスもメスも性器と排泄器がくっついたような位置にあって、見た目ではオスとメスが区別しにくかったために、両性を兼ねると言われたのではないかというお話。
その点では鳥によく似ているので、日本では兎を1羽、2羽と数えるようになったとか。仏教の教えでは四つ足の獣は食べてはいけないとされましたが、兎は鳥と同じと見られて、食べていたようです。
兎は月を見て妊娠するとか、口から出産するなんていう俗説もあるらしいですが、性器が見当たらなかったので、そんな話になったのでしょうか。
別の不思議な話としては、金粉を取り扱う人が、こぼれた金粉を掻き集めるために、「兎の手」というのを使ったそうです。兎の手とは、前足を乾燥させたものらしいです。
「難を転じる変身の場所2」の記事と同じように、また黄金の話になってきましたね。
奈良県の葛城山と「女装」の話。といっても葛城蘭さんとは関係ありません。^^ゞ
葛城山の神は、葛城の一言主神(ひとことぬしのかみ)」といい、男の神で、素顔は醜かったらしいのです。この葛城の神が、あるとき役行者(えんのぎょうじゃ)に、山から山へ岩の橋を架けるように言われました。葛城の神は、醜い顔を見られるのを恥じて、昼は仕事はせず、夜だけ働きました。そのため期限までに橋はできず、その罰として、つた葛でからだを七回りも縛られてしまったというわけです。こういう伝説(岩橋伝説)をふまえて能のストーリーがあります。
さて能の物語では、出羽の国の羽黒山の山伏が、大和国の葛城山へ来たとき、大雪に降られて難儀していると、一人の女が現われます。山伏は、女の家に招かれて、暖をとることができました。じゅうぶんからだを暖めると、山伏は夜の加持祈祷を始めました。すると女は、自分の苦しい胸のうちを訴えて救いを求めたのです。女の苦しみとは、「岩橋を架けるのが遅れて、つた葛でからだを縛られてしまった」ことで、女は静かに舞台から消えます。
山伏が女のために祈祷を続けていると、女姿の葛城の神が現れ、大和舞を舞います。それは苦しみから抜け出すことができた喜びの舞でした。
参考 http://www.osakanews.com/mite-mite-kansai/04/kongou050304.htm
前回書いた『三輪』の話と良く似ています。
僧や行者の中には神と対等なくらいの人もあって、神から救いを求められるということもあったのでしょう。それはその時代の考えですから、そのまま受け入れて見るしかありません。
神は苦しみや喜びを表現するときは女姿になってしまうのかもしれません。
『葛城』の話では、その苦しみは容姿が醜いことが原因でもあるようなのですが、結果的にはそういう醜さからも救われたということなのでしょうが、よくわからない話ではあります
★補足
神が人間の僧に救いを求めるという話は今ではわかりにくい話になっていますが
日本の仏教に本地垂迹説という考え方があって、日本の神々のおおもとはインドの仏様であって、仏が現実社会に現れた形が神であり、だから仏を信仰しなさいということなのです。そういう仏教の立場からすれば、神の上位に仏があり、時には修行をじゅうぶんにつんだ僧は仏に近い存在となって、神の上に来るのでしょう。これは僧たちの考えであって民間信仰ではありません。
また、女姿だというのは、女性は常に罪深い存在で救済の対象であるという仏教の考え方によるのかもしれませんが、それだけではないのかも。
★化粧坂のヤマトタケル 鳩子
奈良県の葛城山の中腹の橋本院と極楽寺のあいだに、化粧坂というところがあり、昔、ヤマトタケルが女装して土蜘蛛を討ったところだそうです。
土蜘蛛(つちぐも)とは大和朝廷に服従しなかった人たちのこと。(2005年10月18日)
葛城山の神は、葛城の一言主神(ひとことぬしのかみ)」といい、男の神で、素顔は醜かったらしいのです。この葛城の神が、あるとき役行者(えんのぎょうじゃ)に、山から山へ岩の橋を架けるように言われました。葛城の神は、醜い顔を見られるのを恥じて、昼は仕事はせず、夜だけ働きました。そのため期限までに橋はできず、その罰として、つた葛でからだを七回りも縛られてしまったというわけです。こういう伝説(岩橋伝説)をふまえて能のストーリーがあります。
さて能の物語では、出羽の国の羽黒山の山伏が、大和国の葛城山へ来たとき、大雪に降られて難儀していると、一人の女が現われます。山伏は、女の家に招かれて、暖をとることができました。じゅうぶんからだを暖めると、山伏は夜の加持祈祷を始めました。すると女は、自分の苦しい胸のうちを訴えて救いを求めたのです。女の苦しみとは、「岩橋を架けるのが遅れて、つた葛でからだを縛られてしまった」ことで、女は静かに舞台から消えます。
山伏が女のために祈祷を続けていると、女姿の葛城の神が現れ、大和舞を舞います。それは苦しみから抜け出すことができた喜びの舞でした。
参考 http://www.osakanews.com/mite-mite-kansai/04/kongou050304.htm
前回書いた『三輪』の話と良く似ています。
僧や行者の中には神と対等なくらいの人もあって、神から救いを求められるということもあったのでしょう。それはその時代の考えですから、そのまま受け入れて見るしかありません。
神は苦しみや喜びを表現するときは女姿になってしまうのかもしれません。
『葛城』の話では、その苦しみは容姿が醜いことが原因でもあるようなのですが、結果的にはそういう醜さからも救われたということなのでしょうが、よくわからない話ではあります
★補足
神が人間の僧に救いを求めるという話は今ではわかりにくい話になっていますが
日本の仏教に本地垂迹説という考え方があって、日本の神々のおおもとはインドの仏様であって、仏が現実社会に現れた形が神であり、だから仏を信仰しなさいということなのです。そういう仏教の立場からすれば、神の上位に仏があり、時には修行をじゅうぶんにつんだ僧は仏に近い存在となって、神の上に来るのでしょう。これは僧たちの考えであって民間信仰ではありません。
また、女姿だというのは、女性は常に罪深い存在で救済の対象であるという仏教の考え方によるのかもしれませんが、それだけではないのかも。
★化粧坂のヤマトタケル 鳩子
奈良県の葛城山の中腹の橋本院と極楽寺のあいだに、化粧坂というところがあり、昔、ヤマトタケルが女装して土蜘蛛を討ったところだそうです。
土蜘蛛(つちぐも)とは大和朝廷に服従しなかった人たちのこと。(2005年10月18日)
能の『三輪』について、舞台を見たわけではありませんが、解説を見ました。
あらすじはこんなかんじ……
大和国の三輪山の麓の寂しい庵に住む僧のもとへ、毎日、樒(しきみ)と水を届けにくる女がいる。秋のある寒い日に、女が寒がっていたので僧が衣を一枚与えて、住みかを聞くと、
「わが庵は三論の山もと、恋しくば、とぶらひ来ませ杉立てる門(かど)」
という歌にある「杉立てる門」だと言って去る。
さて三輪明神に参籠していた男が、御神木の杉の枝に一枚の僧の衣が掛かっているを見つけた。その知らせを聞いた僧が来てその衣を見ると、裾に和歌が書いてあり
「三つの輪は、清く浄きぞ唐衣、くると思ふな、取ると思はじ」
と読める。すると杉の木の陰から声がして、女姿の三輪明神が現われ、神も衆生を救うため人間のように悩み迷うこともあると語り、三輪の妻訪いの神話や天照大神の岩戸隠れの神話を物語りながら、夜明けまで神楽を舞う。
(参考 http://www2.begin.or.jp/sakura/sai05.htm)
「三輪の妻訪いの神話」とは、女のもとに通ってくる男があり、朝にはいなくなっているので不審に思い、夜のうちに男の衣の裾に糸をつけておき、翌朝糸をたどって歩いていったら三輪の神だったという話。つまり三輪の神は男だったのです。それが何故かこの能では女の姿で現れます。
「思えば伊勢と三輪の神、一体分身の御事、今更何と磐座(いわくら)や」とも謡われるように、三輪明神と天照大神を一体のものと見る意図のためなのでしょうが、それは神楽を見せるなどの単に「演出上の意図」だけだったのかは、よくわかりません。
次回は、能の『葛城』について
---追記---
※三輪明神とは今の奈良県桜井市の大神神社(おおみわじんじゃ)のこと。
能のストーリーでは、神でも悩むことがあり、その悩んだときの姿が、女姿だと言っていることになります。
あらすじはこんなかんじ……
大和国の三輪山の麓の寂しい庵に住む僧のもとへ、毎日、樒(しきみ)と水を届けにくる女がいる。秋のある寒い日に、女が寒がっていたので僧が衣を一枚与えて、住みかを聞くと、
「わが庵は三論の山もと、恋しくば、とぶらひ来ませ杉立てる門(かど)」
という歌にある「杉立てる門」だと言って去る。
さて三輪明神に参籠していた男が、御神木の杉の枝に一枚の僧の衣が掛かっているを見つけた。その知らせを聞いた僧が来てその衣を見ると、裾に和歌が書いてあり
「三つの輪は、清く浄きぞ唐衣、くると思ふな、取ると思はじ」
と読める。すると杉の木の陰から声がして、女姿の三輪明神が現われ、神も衆生を救うため人間のように悩み迷うこともあると語り、三輪の妻訪いの神話や天照大神の岩戸隠れの神話を物語りながら、夜明けまで神楽を舞う。
(参考 http://www2.begin.or.jp/sakura/sai05.htm)
「三輪の妻訪いの神話」とは、女のもとに通ってくる男があり、朝にはいなくなっているので不審に思い、夜のうちに男の衣の裾に糸をつけておき、翌朝糸をたどって歩いていったら三輪の神だったという話。つまり三輪の神は男だったのです。それが何故かこの能では女の姿で現れます。
「思えば伊勢と三輪の神、一体分身の御事、今更何と磐座(いわくら)や」とも謡われるように、三輪明神と天照大神を一体のものと見る意図のためなのでしょうが、それは神楽を見せるなどの単に「演出上の意図」だけだったのかは、よくわかりません。
次回は、能の『葛城』について
---追記---
※三輪明神とは今の奈良県桜井市の大神神社(おおみわじんじゃ)のこと。
能のストーリーでは、神でも悩むことがあり、その悩んだときの姿が、女姿だと言っていることになります。
ここ数日、1日のアクセスが100前後ありますね。更新もしてないのに ^^?
アクセス元のドメインを見ると(1日ぶんですが)、楽天の関係はゼロです。
となると、Googleさんからたくさん来てるとしか思えませんね。そこまでのアクセス解析は楽天ではできません。
平安時代から室町時代の稚児の話をいくつかとりあげましたが、もう一つ、書こうと思ってたことがあったのでした。
『逸脱の日本中世』という本に書いてあったことをヒントに、成人後もずっと、稚児同然のようにして一生を終える人のことです。貴族の子弟は一時預りのようなもので還俗します。神人(じにん)そのほかの呼び名の、神仏に関わるやや下級の人たちの中にはいたようですね。そういう神仏に関わった人たちが室町時代にはどんどん身分の卑しいものとされていったらしいです。
そんなことを書いてみようと思ってました。
アクセス元のドメインを見ると(1日ぶんですが)、楽天の関係はゼロです。
となると、Googleさんからたくさん来てるとしか思えませんね。そこまでのアクセス解析は楽天ではできません。
平安時代から室町時代の稚児の話をいくつかとりあげましたが、もう一つ、書こうと思ってたことがあったのでした。
『逸脱の日本中世』という本に書いてあったことをヒントに、成人後もずっと、稚児同然のようにして一生を終える人のことです。貴族の子弟は一時預りのようなもので還俗します。神人(じにん)そのほかの呼び名の、神仏に関わるやや下級の人たちの中にはいたようですね。そういう神仏に関わった人たちが室町時代にはどんどん身分の卑しいものとされていったらしいです。
そんなことを書いてみようと思ってました。
『桜川』と良く似た話に『隅田川』というのがあります。
平安時代の話で、京の高貴な生まれの梅若という少年が、比叡山の稚児となっていたころに、何物かにさらわれて東国をさまよい、からだを病んで、それを苦に江戸・隅田川に身を投げて死んでしまう話です。「桜川」と同じように母はわが子を探しに旅に出たのですが、隅田川のほとりで梅若を葬った塚を見つけて、その前で舞い狂うというお話。
高い身分に生まれても稚児となる時代でした。というより将来のため、立派な学問を修めるために家柄の良い子ほどすすんで稚児となったらしいのです。
ということは源氏の直系に生まれた牛若が幼くして母と生き別れて鞍馬山の稚児になったのも、可哀想なことではぜんぜんないのです。父義朝が生きていても同じだったでしょう。
牛若は自分の意志で鞍馬を抜け出して奥州平泉へ旅に出たのですが、鞍馬山の僧たちから見れば、金売吉次が誘拐して連れ出したのも同然なのです。もし旅の途中で牛若に万一のことがあれば、「隅田川」と同じような話に語られたことでしょう。「桜川」の桜子が自分の意志で稚児になったかならなかったかも、そんなに重要なことではないように思います。
稚児が東国を旅する話はほかにもたくさんあるのでしょうか、気になります。
中世の旅芸人の集団の中に、びっくりするほどの美少年がいたために、それを見た人たちが想像をたくましくさせて物語を作りあげたのか、
あるいは稚児の修行の一つとして寺によって予定されていたものなのか、よくわかりません。
旅芸人の集団が自らの先祖の出自を語るときには、都の高貴な人の名が出ることもあったでしょうし、少年自身が演じた役柄といえばやはり高貴な少年または少女であったでしょうし……。
こういう物語が広く浸透するには、全ての要素が必要になってくるような気もします。
平安時代の話で、京の高貴な生まれの梅若という少年が、比叡山の稚児となっていたころに、何物かにさらわれて東国をさまよい、からだを病んで、それを苦に江戸・隅田川に身を投げて死んでしまう話です。「桜川」と同じように母はわが子を探しに旅に出たのですが、隅田川のほとりで梅若を葬った塚を見つけて、その前で舞い狂うというお話。
高い身分に生まれても稚児となる時代でした。というより将来のため、立派な学問を修めるために家柄の良い子ほどすすんで稚児となったらしいのです。
ということは源氏の直系に生まれた牛若が幼くして母と生き別れて鞍馬山の稚児になったのも、可哀想なことではぜんぜんないのです。父義朝が生きていても同じだったでしょう。
牛若は自分の意志で鞍馬を抜け出して奥州平泉へ旅に出たのですが、鞍馬山の僧たちから見れば、金売吉次が誘拐して連れ出したのも同然なのです。もし旅の途中で牛若に万一のことがあれば、「隅田川」と同じような話に語られたことでしょう。「桜川」の桜子が自分の意志で稚児になったかならなかったかも、そんなに重要なことではないように思います。
稚児が東国を旅する話はほかにもたくさんあるのでしょうか、気になります。
中世の旅芸人の集団の中に、びっくりするほどの美少年がいたために、それを見た人たちが想像をたくましくさせて物語を作りあげたのか、
あるいは稚児の修行の一つとして寺によって予定されていたものなのか、よくわかりません。
旅芸人の集団が自らの先祖の出自を語るときには、都の高貴な人の名が出ることもあったでしょうし、少年自身が演じた役柄といえばやはり高貴な少年または少女であったでしょうし……。
こういう物語が広く浸透するには、全ての要素が必要になってくるような気もします。
謡曲「桜川」と春王・安王
2005/07/07
古典文学
細川涼一『逸脱の日本中世』の第1章に、謡曲「桜川」の話がありました。
「桜川」の話は、九州日向国に貧しい母と男の子があり、桜子というその子は自ら身を売ってそのお金を置いて故郷を離れ、母はわが子を探して旅に出て狂女となって関東常陸国桜川のほとりにたたずむところを、寺の僧に呼び止められ、その寺の稚児となっていたわが子と再会するというストーリーです。
有名なので話は知っていましたが、伝えによると関東管領・足利持氏が世阿弥に作らせたものというのにはびっくりでした。
細川氏の論調は、子を失った母の悲しみと物狂いという観点からのもので、お寺が稚児を人身売買のように買うこともあったのだとも述べています。それはともかく、もう少し違う観点から考えてみたいと思います。
足利持氏といえば、足利幕府と対立し、永享の乱(1438〜9)を起こして敗れて自害したのですが、そのとき幼な子の春王と安王を日光山へあずけて生き延びさせたのです。謡曲「桜川」は、伝説の通りなら、この乱よりも前の作ということになります。
血筋の良い幼い二人が日光へあずけられたということは、二人は稚児になったということです。
乱の後も関東の戦乱はおさまらず、結城氏らが、春王と安王を奉じて反乱を起こしました。桜川からそれほど遠くない結城城に籠城して数ヶ月、やはり形勢は不利で、落城寸前に、結城氏朝は、春王と安王を女装させて脱出させたという話があります。しかし二人はすぐに敵に発見され、氏朝も切腹して、反乱軍は敗れました。
二人の「女装」についてですが、稚児装束なら敵にばればれですし、稚児が二人いることは知られているわけですから、少女姿でも調べればわかってしまうことでしょう。ともかく二人だけでも生かしたいという思いだけでの行動としかいいようがありません。
さて「桜川」の話にもどりますが、母の貧しさというのは、やはり武家だったために生きるすべを身につけていなかったのが原因なのだろうと想像します。父は戦死以外にないのでしょう。敗死あるいは不名誉な死に方だったのかもしれません。当時の人ならそう見ると思います。だとしたら、その死を弔うことができるのは、一人息子をおいては他にありません。桜子がすすんで稚児になったのはむしろ当然のことになります。さらに母の物狂いは、死んだ父の霊の現れのようにも見えますし、さらには自決した足利持氏の亡霊のようにも見えます。
もし「桜川」が作られたのが実際はもっと後の時代だったとしたら、人々は美しく哀れな桜子から、結城城で敗れた春王と安王を連想し、あの世での親子の再会を物語の中に見たのかもしれません。だとしたら「桜川」を作らせたのは、あの父なんだと、そういう伝説ができてもおかしくはないのです。
「桜川」の話は、九州日向国に貧しい母と男の子があり、桜子というその子は自ら身を売ってそのお金を置いて故郷を離れ、母はわが子を探して旅に出て狂女となって関東常陸国桜川のほとりにたたずむところを、寺の僧に呼び止められ、その寺の稚児となっていたわが子と再会するというストーリーです。
有名なので話は知っていましたが、伝えによると関東管領・足利持氏が世阿弥に作らせたものというのにはびっくりでした。
細川氏の論調は、子を失った母の悲しみと物狂いという観点からのもので、お寺が稚児を人身売買のように買うこともあったのだとも述べています。それはともかく、もう少し違う観点から考えてみたいと思います。
足利持氏といえば、足利幕府と対立し、永享の乱(1438〜9)を起こして敗れて自害したのですが、そのとき幼な子の春王と安王を日光山へあずけて生き延びさせたのです。謡曲「桜川」は、伝説の通りなら、この乱よりも前の作ということになります。
血筋の良い幼い二人が日光へあずけられたということは、二人は稚児になったということです。
乱の後も関東の戦乱はおさまらず、結城氏らが、春王と安王を奉じて反乱を起こしました。桜川からそれほど遠くない結城城に籠城して数ヶ月、やはり形勢は不利で、落城寸前に、結城氏朝は、春王と安王を女装させて脱出させたという話があります。しかし二人はすぐに敵に発見され、氏朝も切腹して、反乱軍は敗れました。
二人の「女装」についてですが、稚児装束なら敵にばればれですし、稚児が二人いることは知られているわけですから、少女姿でも調べればわかってしまうことでしょう。ともかく二人だけでも生かしたいという思いだけでの行動としかいいようがありません。
さて「桜川」の話にもどりますが、母の貧しさというのは、やはり武家だったために生きるすべを身につけていなかったのが原因なのだろうと想像します。父は戦死以外にないのでしょう。敗死あるいは不名誉な死に方だったのかもしれません。当時の人ならそう見ると思います。だとしたら、その死を弔うことができるのは、一人息子をおいては他にありません。桜子がすすんで稚児になったのはむしろ当然のことになります。さらに母の物狂いは、死んだ父の霊の現れのようにも見えますし、さらには自決した足利持氏の亡霊のようにも見えます。
もし「桜川」が作られたのが実際はもっと後の時代だったとしたら、人々は美しく哀れな桜子から、結城城で敗れた春王と安王を連想し、あの世での親子の再会を物語の中に見たのかもしれません。だとしたら「桜川」を作らせたのは、あの父なんだと、そういう伝説ができてもおかしくはないのです。





