上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
もう一つの日記「トランスジェンダーな日々」
http://hatopia.hp.infoseek.co.jp/blog/
のほうがよく更新しています。

 最近のタイトル

読みたいSF
トランスでリサイクル
将軍の骨盤
髪を切る男と泣く男
これまでのタイトル変更などについて
36.8度

子ども時代のセクシャル体験
髪長彦
七五三といえば
この一週間
一般女性とは
行ったり来たり

手と指について
悲しき17歳
日本語アクセントと作曲2
わが半生記は
男は女よりも軽い?
"肩幅"のつづき
肩幅を狭くするには
ふとももについての健康知識
サルトルとボーヴォワールの関係ってなんだっけ
ポーズ研究 その2

ひねりの文化?
表紙の写真
日本語アクセントと作曲
薬とマジック
コミュニケーションって何?
はてなブックマークからの「おすすめ」
月刊誌を読もう
雨降りお月さんのお話

なおこのブログへのコメントは承認制になっています。
なにかと調子が悪いときは、温泉療養もいいかもしれませんね。
余裕があれば何日も旅館に滞在して、小説でも書いたり……

さいきんは「鳩子かげふみ歌」のほうが更新が多めになっていると思います。こちらです
http://hatopia.hp.infoseek.co.jp/blog/
(2009/3/8)
ふと家父長制という言葉が気になったので、ネットを検索してみると、このページがいちばん良いようですね。
http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/sign/sign53.html(神名龍子)
批判の語句などが厳しすぎる感じもしなくはないのですが、おおむねこの通りなんだろうと思います。
付け加えるとしたら、少々枝葉的なことではありますが、次の2点でしょう。

1つは社会集団組織の東西の違いです。
世間で言われている「家父長制」には、意味の違う2種類があって、1つは西洋の近代社会成立以前の「家父長制」で、もう1つは日本の明治〜戦前のころの民法などの特徴を「家父長制」ととらえた人たちがいたことだそうですが、では日本の近代以前はどんなだったかということです。
西洋のような専制君主のような家父長制ではなかったのですが、要するに、同族集団が殿様のような象徴的な存在の人をトップに据えて、数人で側近政治をやってたようなパターンじゃないでしょうか。一人の独裁ではないので近代社会で否定されませんでした。庶民レベルでも、名主(なぬし)というのは語源も"同じ苗字の集団の長"という意味なので、日本人社会は上も下も同じようだったように見えます。

2つめは、日本では中世以前においても夫婦で財産は別々だったといった男女平等風なことがなぜ可能だったかについての部分です。
こんなことが書かれていました……「私の考えでは、これはおそらくは日本の武士が、元をただせば開墾農民だったからからだと思っている。元々が夫婦で力を合わせて起こした家であれば、役割分担はあっても、どちらが上ということはない。」
「私の考えでは」と強調しているのは異論を承知で書かれたのでしょう。
もっと簡単な説明があります。つまり夫婦は同居する習慣がなかったですし、先祖から相続した田畑や財産も当然夫婦別々で、年貢を納める先の領主も別々になることがあったみたいです。財産については鎌倉時代初期の法律(御成敗式目)に女子による相続を前提にした条項があったと思います。

とはいいつつ、社会の主要な役割を担ったのは古代から男性たちでした。
なぜそうなのか、それなりに考えてみますと……
「社会」が成立したときからそうだったのでしょうね。ただしこの「社会」とは近代人が考える普遍的な社会……「人間は社会的存在である」というときの「社会」のこと……ではなくて、原始時代の部族集団と対立して成立した社会……利害対立の調整機構としての社会のことです。
部族や一族の集団では、日本では女子の役割のほうが重かったかもしれません。けれど一族どうしの共存のための調停役が男子でしたので、調停に失敗して戦争になったり、いろんな対立を経て国家ができたのでしょうが、そうした歴史の歩みとともに、人間にとっての一族集団の価値がどんどん下がってしまって、利害対立の調整機構ばかりが注目されるようになっていったために、男性ばかりが目立って行ったということではないでしょうか。それが今までの歴史だと思いますが、将来はどうあるべきなのでしょうね。
めおと楽団ジキジキによる「千の風になって」という歌の替え歌で、「離婚調停の歌」というのを聞きました。
「私の実家の前で、叫ばないでください。そこに私はいません、戻ってななんかいません♪」 ……面白かったです

さて、離婚といえば、江戸時代には「三下り半」と呼ばれた3行半の離縁状を男が書かなければならないのでした。その文書内容は、男の都合で離縁したので、以後女が誰と縁付こうと干渉しない、という誓約文なのですが、女はこれを取っておかないと再婚できません。嫁入りだった場合、実家の籍(人別)に戻るためにも必要です。女からは三下り半を確かに受け取ったという証文を男へ返す場合もありました。「三下り半は突きつけるものではなく女が奪い取るもの」(杉浦日向子)です。

男にだけ書かせるのは、後でねちねち言う男が多かったせいもあるかもしれませんが、離縁状は地域社会や関係者への誓約でもありますから、そういうつきあいは男が代表するものだったというのもあるかもしれません。あるいは女の文字がフェティシズム(性的な意味ではなく)の対象となるのを避ける意味もあるかも。

江戸の町では女の人口が極端に少なかったため、女には新しい縁談は降るほどあったようです(男にはめったになかったとのこと)。
地方でも婿の浪費などがあれば、年貢の義務を果たせませんから、すぐ追い出されます。婿でないケースでは、非行や遊び癖のある息子は年長息子でも既に勘当されて淘汰されて、素行の良い弟が後継者になりますから、離婚率は少なかったでしょうが、いずれにせよ、離れた気持ちが戻らないということになれば、仲人や親族や村の人を交じえてよく相談して、二人の将来優先で最終決着になります。離縁ですから中には悲劇的なものもあるのはしかたありません。武士や上層階級では細かい仕来たりもあったようですけれど。

明治以後の解釈では、当時は男にだけ離婚権があってしかもそれを一方的に行使できたかのような誤った解釈が流布していたのですが、最近は、学校の歴史教科書でも正しい解釈が採用されるようになっているのことです。

明治以後の歴史観は、男尊女卑的な考えのため、男女の問題において他にも誤った歴史の解釈をずいぶん広めてしまったようですね
「手なし娘」という昔話があるそうです。グリム童話にも似たようなのがあるそうです。あらすじはこんな感じ

女の子が毎日継母にいじめられて、継母に腕まで切られて「手なし娘」になってしまいます。
けれど彼女は不自由なからだで苦労しながら成長し、やがてお婿さんをもらって家庭を築き、子どもも生れます。
ある日、子どもをおんぶしながら娘が川で洗濯をしていると、おんぶの紐がほどけて子どもは川に落ちてしまいました。娘はとっさに先のない腕をさし伸ばして子どもを助けようとしました。そのとき、娘の腕の切られたところから新しい手が再生して、子どもをしっかり抱きかかえ、子どもを助けることができたのです。それは観音様の霊験によるものだとのことです。

もしかすると実際には、手は切られたのではなくて、手の機能を母親に奪われていただけなのかもしれませんね。その母親とは継母に限らず、一般の母親でもありうることです。
娘の自由や一人立ちを妨害する母親ということです。
娘は成人して結婚はしたのですが、子どもを助けようと行動を起こしたとき、初めて自立した成人となったということなのではないでしょうか。川の流れは急で、もしかすると自分も流されてしまうかもしれません。それでも勇気をふるって、劇的な場面で行動を起こしたということなのでしょう。

さて私自身のことをいえば、親族ないしは何らかの大きな力によって、これまで自由を奪われてきたことがあったり、ある一歩を踏み出せないできたといえないこともありません。でもそれを越えるための劇的な場面というのに、なかなか遭遇しません。
じつは劇的な場面は何度かあったけれど、それに気づかなかっただけ、というのでは、ちょっと情けない人生になってしまいますよね +.+;
そうではないとは思うのですが、気づく能力というのは大事なのでしょう。
去年の9月ごろから思うことは、今の社会は消費社会を通り越して投資社会とでもいうほかないような社会になっていることでした。
「○○の商品化」なんていう言葉がよく使われた時代もありましたが、それよりも人間の「証券化」のようなものが進んでしまって、期待されたり利用されているうちはいいのですが、人が安く売られるというより紙くず同然に捨てられることもありうるような、そういう世の中の非情な面も問題になってゆくのだと思います。

実は人が夢や希望を語るときも、投資社会のしがらみから自由に語ることが困難になっています。
どうしたらいいのでしょうね。
従来の「男性的」な上昇志向は、人の心を紙くずにしてしまうかもしれないとしたら、立ち戻るべき場所は、労働の基本である、ものを作る仕事や、対面サービス業のような仕事、あるいは職業ではなくても、そういった趣味やそのほか日常のいとなみの中にあるものに目を向けるしかないのかもしれません。その場合に、職業的であることと趣味的であることの差はあまりないはずです。

眠くなったので今日はこれでおしまい
だいぶ前にも書いた記憶があるのですが、以前流行ったノストラダムスの予言の解釈の話です。
予言されたという項目を1つ1つ見てゆくと、何やら戦後のジャーナリスティックな話題だけが予言されたことになっているんですね。それだけが大事件ではないでしょうに。

だからこれからはああいう予言は流行らないでしょう。ワイドショーの時代になってしまいましたから。1000年以上前の予言者の関心ごとと、今のワイドショー的な関心がぴったり一致してるなんて、そんなのウソだって誰にでもわかってしまうでしょうから。ジョークとしては面白いですけどね。

昔の武士の家系の家で、江戸時代に書かれた書物が発見されたことがあったそうですが、その家の先祖が豊臣秀吉かだれかの家来として戦功をあげた話が詳しく書いてあるそうです。現代語訳で出版もされてるそうですが、ほんとは最近の創作(フィクション)らしいです。時代劇で有名になった合戦が全部カタログのように登場したりするんじゃないでしょうか。時代劇ファンの人は面白がるのかもしれませんけどね。

大相撲で有名になった取組みの一番でいえば、北の湖×貴乃花とか、若貴兄弟対決とかは、そのうちの代表みたいなものだと思いますが、最近そういうのを週刊誌で変なフィクションにしようとしてる人がいるみたいで、ワイドショーで見ましたけどね。でも相撲ファンは面白がらないと思いますね。その点が、予言や時代劇の話と違うところです。こういうフィクションは、明るくやらないとダメですよね。
宝くじを買ったこともないあたくしですが、投資ということもさっぱりわかりません。

さて第1次産業というのは自然から食物などを作ったり採集して売って暮らしを立てることです。第2次産業は、人工の物を作ったり加工して売って暮らしを立てることです。生産された食べ物や道具は生活に不可欠のものですから、買う人は対価を支払って満足するわけです。
第3次産業は、物を流通させる商業などがありますが、流通サービスにういても買う人が喜んでくれれば、売る人も生きがいを感じることができるわけですね。そのほかサービス業といわれるものは、目に見えないものであっても対価を支払う人が満足してくれるというのが基本です。
買う人は、買った物を消費して得られる利益に対する対価を支払うというだけでなく、心の満足に対する対価もプラスして支払うわけです。

ところが、投資などで収入を得る仕事は、3つのうちにどれに属するのでしょう。1や2のように物を作るわけではないので、第3次産業なんでしょうね。でも喜んでくれるのは誰でしょうか。金融会社は違いますね。企業ですから個人消費ではないですし、金銭収入になったという喜びでしかありません。
あるいは株などを通じて企業にお金を貸したことは一種のサービスなのであって、そのサービスの対価として配当を受け取るのだとすれば、なんとかサービス業の一つに入るのでしょう。でもややこしいですね。そのサービスを受ける側はやっぱり経済的利益があるんです。

「働かざるもの食うべからず」と言ったのはロシア革命のころのレーニンだと聞いていますが、これは要するに不労所得をいましめた言葉のようですね。地主階級などの働いてない人は食う資格がない、彼らにお金を支払って食わせてあげる必要はないという考えです。

とはいえ、日本人は、昔から、あまり働かないでそこそこの収入があれば、あとは趣味人としてのんきに暮らしたいと考えている人が多いらしいです。でもだんだん将来への不安感がつのる世の中になると、「そこそこの収入」の範囲がわからなくなってしまうんでしょうね。

むかし江戸の町では、どんな仕事でも食べていけたようなところがあったらしくて、たとえば道を歩いて声がかかると、耳掃除をしてあげて、爪を切って磨いて色まで塗ってくれるような商売の人とか、飼い猫の蚤を取って歩いているような仕事の人がいたり、けっこうオタクっぽい職業の人がたくさんいたみたいなんですね。
ジェンダーとは、生物学的な性とは微妙にシフトしていることもある文化的ないし社会的な性のありかたのこと、というのが普通の解釈だと思いますが、
人間の生活で意識されるのは、ほとんどがジェンダーのほうなんでしょうね。(出産などについてもそう言えると思いますが難しくなるので割愛。)

ジェンダーのことをときどき漢字6個で社会的性役割なんて書かれると、窮屈に感じてしまうこともあると思います。社会的とか役割とか、ある種の「社会参加」をしなければいけないような……? でも人間はどう拒否しようとも社会的な存在なのです。

社会という言葉は英語のsocietyの翻訳語として100年ちょっと前にできたものらしいです。societyには、社会という意味だけでなく、団体とかグループとか、身近なところでは世間とか交友関係とか、そういう広い意味が辞書にも載っています。
交友関係での性役割ということなら、パートタイムの夫婦関係のようなものをお持ちのトランスジェンダーさんもいらっしゃるそうですが、それでもじゅうぶんな役割をおつとめだということなんでしょうね。交友関係が広い人もいれば、狭い人もいます。それが世間というものです。
単なる私企業に雇用されることが「社会参加」でもないことはすぐ理解できると思います。雇い主との関係はどこまでいっても私的な関係でしかないですよね。生産とか職場ということになると別の話になりますけど。
ま、無理せずにやっていくのが良いと思います^^;
「ひこうき雲 荒井由実 自殺」というキーワードで、「鳩子かげふみ歌」のページが出たこともあるみたいです、去年のお盆のころの日記です。
http://hatopia.hp.infoseek.co.jp/blog/2007_8_15_516.html
「まりっぺの日記」さんも出ましたね。オリジナルはここ
http://d.hatena.ne.jp/lolitamarippe/20080821
あの歌には自殺説と病死説と2通りあったかもしれません。

むかしTBSのアナウンサーで林良雄という人がいて、もう故人となられましたが「パックインミュージック」というラジオの深夜放送を担当していました。彼のそうとうなお気に入りが「ひこうき雲」という荒井由実のデビューアルバムで、番組で毎週かけていたみたいです。われらがYumingはあの番組から有名になったのだという人もいます。
あの番組に、もう一人忘れられない人がいましたね。馬場こずえさんです。深夜放送ブームが去った後も「こずえの深夜営業」という番組を続けていらっしゃいました。